中国が飛躍的に発展した「宋代と現代」の共通点 「史上最悪の弱腰政治家」評価の秦檜と習近平
この講和で取り決めたのは、まず対等の交際をするということ。宋が兄、契丹が弟という関係です。宋は軍事的に劣勢ですが、メンツを保つことにこだわりました。
そもそも皇帝は天子であり、天子は漢語的にみれば、天下に1人しかいないはずですが、契丹皇帝と宋皇帝が共存することになりました。もっとも、儒教や漢語の知識水準の高い宋の人々にとって、これは屈辱的な話です。
また、宋から契丹に対して、毎年絹などが贈られることになりました。これを「歳幣」といいます。両者の間には格段の経済格差があるため、これはある種の経済援助のようなものと考えることもできます。しかし、攻められないための貢ぎ物と捉えることもできるため、やはり宋の側では屈辱的と感じる人が多かったようです。
とはいえ、これによって契丹がいつ攻めてくるかわからない、という状態は回避されました。契丹としても、軍事力を使わずに宋から物資を得られるので、文句はありません。つまり、遊牧国家の軍事的なバックアップを得たうえで、経済発展を続ける体制を築いたわけです。軍事・政治と経済文化の分業・共存を確立したともいえるでしょう。
「対等者の中の中国」
当時、宋の周辺にあった国は契丹だけではありません。そこで宋は契丹のみならず、北西部に位置する遊牧国家の西夏などとも、似たような関係を築きました。これが奏功して、宋の体制は政治的にも経済的にも安定しました。これを学界では「澶淵体制」と呼ぶこともあります。一種の多国共存体制といえます。
概して中国というと、いわゆる中華思想で、自分以外の対等な存在を認めないようなイメージがあります。しかし主観的な記録や史料の記述はともかく、客観的に見て、そういうイメージがそのまま現実だった時代は、むしろ特殊でまれでした。多くの時代は複数の国・勢力が併存して、共存を図っていたのです。
唐の時代も、それ以前の三国六朝の時代も同様です。確かに中華思想の理念はずっと存在していたと思いますが、それが実現したか、現実の体制となったかどうかは、まったく別の問題です。
そして宋の時代は、相手の契丹や西夏もかなり堅固な国家体制を築いたために、そうした共存の体制がいっそう顕著になり、安定しました。各国が安定政権だったので、合意した国際秩序・安全保障を確保しやすくなり、その中で、平和で繁栄した時代を作れるようになったのです。
英語圏の研究者は、こういう状況を「China Among Equals(対等者の中の中国)」と称しています。思想・主観としての中華思想に反し、宋代のように実は対等者を認めている時代があったということです。もしこの状態が長く持続して定着すれば、ヨーロッパのウェストファリア体制のようなものができていたかもしれません。
ヨーロッパ各国が三十年戦争を経て、ウェストファリア条約を締結したのは17世紀ですので、ずいぶん先行する動きでした。欧米ではこれがもとになって、対等な国際関係ができあがり、近代化を実現させましたので、東アジアにも史上そうした可能性があったともいえます。
したがって、平和共存の時代の中国は、現代との類似性も見られるということになります。宋代はいわゆる「澶淵体制」のもと、経済大国になって繁栄を享受し、文化を発展させました。その様相は国際関係の平和のもとで、経済成長を続ける現代中国と似ています。
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