中国が飛躍的に発展した「宋代と現代」の共通点 「史上最悪の弱腰政治家」評価の秦檜と習近平

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しかし、宋にとっても、契丹は最大の軍事的な脅威でした。「唐宋変革」の経済発展によって、経済力は圧倒的に上回っていましたが、軍事力ではかなわなかったのです。

対抗措置として各地方に軍事を委ねる手もありましたが、そうすると政治的には以前の割拠状態にもどって、バラバラになる懸念がぬぐえません。そこで中央政府が軍事力を集約して、シビリアンコントロールを徹底しました。ですが、その状態を維持するには、軍事力そのものを抑え込んでおく必要がありました。

そのため、宋は有力な騎馬軍を持てなかったといわれています。実戦では契丹の騎馬軍に押される一方、攻めこまれて負けたり、逆に攻めこんで負けたりもしました。

こうした状況から、宋は漢・唐などと違い、歴史上、最も小さくて情けない時代だったと評価されることがしばしばです。しかしそれは一面的な見方ではないでしょうか。

平和を手にした「澶淵体制」

やはり当時の感覚をもって、大所高所から事態をみる必要があります。そうした視点からは、宋代はむしろ最も豊かで、平和な時代だったと思います。なぜなら、決定的な軍事攻撃を受けないように、隣国と共存を図る工夫を施していたからです。端的にいえば、豊富な経済力を使って、契丹を籠絡したのです。これを「澶淵の盟(せんえんのめい)」といいます。

隋の時代に、江南から黄河流域にかけては、物流の幹線として大運河が造られていました。ただし運河と川とでは、かなり高低差があるので、合流する前に船は運んできた積荷をいったん降ろして、積み直す必要があります。その物資の集散の拠点となったのが、運河と黄河の交叉点にある開封という都市で、唐が亡んだ後の「五代」から宋の時代にかけて、首都になっていました。

唐の首都だった洛陽や長安は、山奥の盆地にありましたが、首都は官僚など純消費者を最も多く抱えていますから、「五代」も宋も効率や経済を優先したわけです。それに軍事面でも、徴兵制で屈強の兵士を集めるなら、山奥のほうが有利だったかもしれません。しかしお金で兵士を募集雇用するなら、経済都市のほうが便利です。

その開封の北側にあるのが、澶州と呼ばれる都市でした。「澶淵」とは、澶州の古風な言い方です。もしここを外敵に攻めこまれて黄河を渡られたら、開封はたちまち陥落します。そんな要衝だったのです。

実際、契丹は澶州を陥れて、開封を攻略したことがありました。その際は支配に失敗して、北方に撤退しましたが、あらためて攻めてこない保証はありません。宋代にも実際に、侵攻してきました。

そこで宋政府は、契丹と講和する道を選びます。契丹が南下してきた際、天子の真宗皇帝をこの地まで担ぎ出し、危険性を認識してもらったうえで、最終的に決断を仰いだのです。それが「澶淵の盟」です。時に1004年のことでした。

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