ジリ貧の「地銀」はどうすれば浮上できるのか アメリカの証券会社の手法にヒントが
株式上場が絡んで複雑な状況に
地方銀行に限らず、銀行は肥大化の欲望を抱えている。それは国内経済のパイが拡大し、しかも資金需要という社会的ニーズが強かった高度経済成長期には適合した。複雑なルートではなく、一本道を昇り詰めるような時代である。ところが、成熟経済へと移行するや、経済のパイは拡大せず、資金需要は停滞するとともに、社会的なニーズは複雑化した。さらに現在、社会は複合的な歪みを伴ってきている。
わが国に銀行が誕生して以降、初めての事態と言える。そうしたなかで、地方銀行はその原点が漠然としていたために、結局、量の追求という時代遅れの価値観にしか自身が生きる意味を見いだせていないように思えてくる。何のために走っているのかという話ではなく、走るために、とにかく走っているという光景である。
そもそも、基本的に商業銀行はGDP(国内総生産)の成長率並みに自身も成長するモデルであり、それ以上の成長を目指すモデルが投資銀行である。したがって、GDPの成長が低ければ、本来、商業銀行の成長率もそれに伴って低くなるのが標準シナリオである。
しかし、そのモデルに株式上場という仕組みが加わると、株式市場、具体的には投資家からは高い成長への圧力がかけられてしまう。株式上場は信用力の証しかもしれないが、その一方では、他人資本という重たさと資本市場のメカニズムという他律を受けて、経営者は自社の株価に一喜一憂せざるをえなくなる。
存立の原点が確固としていればまだしも、それがあいまいであれば、株価の水準がすべてになってしまいがちである。そうしたなかで、多くの地方銀行がもがき苦しんでいるようにみえる。
もちろん、厳しい経営環境は地方銀行のみならず、信金・信組でも同様である。資本基盤の大きさからすれば、信金・信組よりも地方銀行のほうが圧倒的に存続可能性は高いと言っても間違いではない。人口・事業所数の減少を背景とする地域経済の疲弊は狭域化するほどに深刻でもある。
例えば、地方銀行は過疎地を営業基盤に持っていても、その一方ではその地方の都市部もテリトリーとしている。ところが、信金・信組のなかには、営業地盤のほとんどが過疎地、あるいは過疎化が進展しているというケースすらある。
信金・信組は、地方銀行のように県境を越えたり、首都圏に進出したりといった「逃げ場」も与えられていない。地域の浮沈は、そのまま、自身の浮沈である。つまり、信金・信組は追い詰められている立場である。
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