鉄道の街・沼津は「停車時間の長さ」で発展した 機関車交代の重要駅、漁村から工業都市へ

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

漁村から観光都市へと脱した沼津は、戦後から高度経済成長期にかけて工業・商業も発展した。

沼津を工業都市へと導いた企業はいくつかある。鉄道の街でもあった沼津には、鉄道信号灯用のフレネルレンズで鉄道業界に進出した小糸製作所が1947年から操業を開始している。終戦直後の国鉄は、車両の損傷がおびただしく、艤装や大規模な修理を必要とした。小糸製作所は、これらの業務を担当。小糸製作所は1949年に社名を小糸車輛と改称するほど鉄道車両メーカーとして活況を呈した。

しかし、社名を変更した直後に財政金融引き締め政策のドッジ・ラインが実施される。ドッジ・ラインには国鉄予算を大幅に縮減する内容が盛り込まれており、その余波を受けて小糸車輛の受注額は激減した。1951年には、小糸車輛は沼津工場を売却。小糸車輛の撤退後、藤倉電線(現・フジクラ)が同地を取得した。

沼津市は、1958年に工場設置奨励条例を制定。工場の新規進出のみならず拡張に対しても奨励金を交付する同条例によって、1960年には明電舎とリコーが沼津に工場を開設した。沼津の歴史を語るうえで、どちらの企業も欠かすことはできないが、とくにリコーは駅北口から延びる道路の名称にも採用されているほど沼津発展に貢献している。

新幹線計画浮上で危機感

戦後、沼津の工業は順調に発展してきた。それは、駅前市街地の活性化にも如実に表れていた。

戦前期より、たびたび大火で市街地を焼失してきた沼津は、1949年にも大火で駅前のにぎわいを失う。行政当局は商店街などと連携し、1954年には防火建築帯のアーケード街が駅前に姿を現した。

アーケード街による経済効果は目覚ましく、沼津は静岡県東部の拠点都市の座を不動のものにする。1957年には“沼津で東京のお買い物”をキャッチコピーに掲げた西武百貨店が駅前に進出。沼津は漁村・工業都市に加え、商都としての顔も併せ持つようになった。

それまでの沼津駅は南口しかなかったが、工場進出などにより駅の北口を望む声が強くなった。こうした声を受け、1956年に北口が開設された。

だが、昭和30年代半ばに差しかかる頃、順調に発展していた沼津に危機が訪れようとしていた。東海道新幹線の建設計画が浮上したのだ。

当初の計画では、静岡県には3駅が設置される予定になっていた。静岡県の県庁所在地である静岡市の玄関・静岡駅、県西部の拠点都市・浜松にも駅をつくることが確定。問題は東部エリアだった。東部の有力とされていたのは熱海駅で、沼津は劣勢に立たされていた。

次ページ沼津停車はかなわなかったが…
関連記事
トピックボードAD
鉄道最前線の人気記事