鉄道の街・沼津は「停車時間の長さ」で発展した 機関車交代の重要駅、漁村から工業都市へ

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新幹線の駅誘致のため、沼津・三島は政財界挙げて誘致に取り組む。静岡県の斎藤寿夫知事を筆頭に沼津市の塩谷六太郎市長、三島市の長谷川泰三市長、県東部を地盤としていた駿河銀行(現・スルガ銀行)の岡野豪夫頭取などの有力者によって新駅設置期成同盟会が結成される。

【2019年6月11日19時55分追記】初出時、静岡県知事名に誤りがありましたので、上記のように修正しました。

1964年開催の東京五輪までに新幹線開業を間に合わせることを名目にして、政府や国鉄は同盟会の陳情を受け入れなかった。そのため、東海道新幹線後も沼津市を中心にした駅誘致の活動はつづく。こうして三島信号場を昇格させる形で、1967年に三島駅の開設が決定。東海道新幹線の線形もあって沼津駅に新幹線を停車させることは叶わなかったが、新幹線の三島駅停車は沼津市が望んだことに近い、ベターな案で決着した。

三島駅の新幹線停車は沼津にも大きな恩恵があるとして、沼津市は新駅建設費に1億2400万円を負担するなど多大な協力をした。

長年続く課題は「高架化」

その後はマイカー時代の到来もあり、ほかの都市と同様に沼津は郊外化が進んでいく。交通環境に変化がありながらも、1991年には御殿場線への乗り入れによる沼津駅―新宿駅間を直通する特急「あさぎり」の運行が開始された。

2012年まで沼津に乗り入れていた小田急直通特急「あさぎり」(写真:ロクヨン/PIXTA)

小田急とJR(国鉄)による直通運転は1955年から開始されていたが、途中の御殿場駅までだった。1991年のダイヤ改正によって、特急の運転区間が沼津駅まで延長。これにより、沼津の利便性は一気に向上した。運行開始から1年で、特急「あさぎり」は21万人もの乗客を沼津駅へと運んだ。

こうした数字から、沼津政財界は特急「あさぎり」への期待を膨らませたが、1997年の年間117万人をピークに利用者は減少。2012年には運転区間を新宿駅―御殿場駅間に短縮。沼津の期待を背負った新宿駅への直通特急は、21年で幕を下ろした。

紆余曲折を経ながらも、鉄道の要衝地として沼津は発展を遂げてきた。目下、鉄道関係の問題には、駅付近の高架化事業がある。沼津の高架事業は1980年代から浮上しており、約40年を経ても解決しない問題になっている。

沼津駅には南北自由通路がなく、南北の行き来には駅両端にある線路をくぐるガードまで迂回しなければならない。不便を解消するべく、沼津駅の高架化が検討された。

しかし、駅の西側には貨物駅があり、高架化に取り組むには貨物駅を移転させなければならない。その代替地をめぐる話し合いはまとまっていない。2006年に高架事業は認可されたが、それでも簡単に決着する気配を見せない。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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