泥棒と呼ばれた男、笑福亭松喬の野太い生き様 泥棒三喬から野太い噺家に、今が旬の七代目

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五右衛門の会での松喬(写真:笑福亭松喬師匠提供)

付記しておくが、松喬は、大変な野球好きだ。阪急ブレーブスから始まって、今はオリックス・バファローズの熱狂的なファン。関西地区ではテレビやラジオの実況放送によくゲスト出演している。このインタビューのときも落語と同じくらい野球の話に花が咲いた。

「僕は大学時代、落研に入っていましたから落語ができました。師匠に“やってみなさい”言われて『動物園』をやった。すると“うまくもないなあ、まあ、変な癖もないか”って。

師匠は“落研上がりは変な癖がつく”と嫌っていました。落研で“うまそうに見える口調やしぐさ”を小手先で覚えてしまう。それが修業のうえで邪魔になるんですね。癖があると落語を覚えなおさないといけない。いったんスタートラインからバックせないかんのですね。それがなかったと。“ほな、もう『叩き』はええわ『犬の目』からやろか”と。だから僕は『叩き』はできません」

笑福亭の捨て育ち

「叩き」とは、上方の旅ネタ「東の旅」の冒頭部分のことだ。「ようよう上がりました私は初席一番叟でございます」と、張り扇と小拍子で見台を叩いて派手な音を出す。前座で入門した弟子は「叩き」で、落語の口調を会得するのだ。それを免除されたということは、野球で言えば新人で一軍キャンプからスタートしたようなものか。

上方落語界では「笑福亭の捨て育ち」という言葉がある。笑福亭松鶴の一門は、入門しても師匠は手取り足取り教えない。

弟子は他の一門や先輩などに教えを乞うて、自分で修業をしていく。だから仁鶴、鶴光、鶴瓶など、門下からは、誰とも似ていない、個性的な落語家が生まれた。

しかし先代松喬(当時鶴三)は、きっちりと弟子を仕込んだ。

「最初の3年間のネタ10本は、口移しで教えていただいて。それからは、やりたいネタがあれば師匠のテープで覚えていくということですね。そういう時期があって、あとは他の一門の先輩や師匠方に教えていただいた。

『鴻池の犬』や『抜け雀』は、桂千朝さん(三代目桂米朝門)、『饅頭こわい』は米之助師匠(桂米朝の兄弟弟子)に習いました。落語の世界というのは不思議なもので門下を超えて、いろいろ教えていただけますんでね」

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