泥棒と呼ばれた男、笑福亭松喬の野太い生き様 泥棒三喬から野太い噺家に、今が旬の七代目

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笑福亭三喬時代の松喬師匠。天満天神繁昌亭にて(写真:笑福亭松喬師匠提供)

「ある方に“松喬さんが高座へ上がって、なんか、親戚のおじさんが座っているみたいに思うのは、あなたの努力でも何でもありません。産み育ててくれた親に感謝しなさい”って言われたことあるんですよ。この風貌と雰囲気は、もう、親がつくってくれたものなんでしょうね」

「花色木綿」「おごろもち盗人」「仏師屋盗人」「月にむら雲(小佐田定男作)」「転宅」、スリの噺だが「一文笛(桂米朝作)」「穴泥」など、落語には泥棒が出る話は多い。松喬はそのほとんどを演じるが、独自の解釈が光る話もある。

例えば「仏師屋盗人」では、盗人を独り立ちできない頼りない若者にして、それを仏師が叱りつけ、仏像の修復を手伝わせる。ストーリーにはないが、この若者は仏師に入門して更生するのではないか、と思わせる。

「言われてみれば、ちょっと“盗人救済落語”になってますよね。僕はポリシー持ってるんです。ほんまに悪い人が泥棒をやると後味悪いだけなので、この人はほんまはこんなことせえへんやろ、というのを大前提にしています。泥棒やけど善良に見えて、どうせこの人最後はつかまるんやろな、と思わせるようにやるのがいいんじゃないでしょうかね」

俺でもできるんちゃう?で「大変難儀な道」に

1983年に、当時若手の実力派だった笑福亭鶴三(かくざ、のちの六代目松喬)に入門。一番弟子だ。上方落語四天王筆頭の六代目笑福亭松鶴の孫弟子にあたる。

私事にわたり恐縮だが、筆者は入門時の松喬と仕事仲間だった時期がある。前座と事務員の関係で、上方落語協会主催の「島之内寄席暫亭」の設営などを一緒にした思い出がある。そのころから、どことなく愛嬌のある若者で、変な冗談を言うとくぐもった声で「くっくっ」と笑ったのが印象的だった。そのころから自分の「笑いの価値観」を持っていると感じた。

笑福亭松喬師匠。2019年5月、東京都内にて(撮影:尾形文繁)

「高校のときに、訳もわからず“噺家の道行きたい”と言って親に大反対されて大学に行きましたが『お前が20歳になったら親は何も言わん』という約束も取りつけました。

それからは師匠につく噺家を品定めしました。

週2回、年間100回くらい寄席や落語界に通って、400から500くらいの落語聞きました。

当時は桂枝雀師匠の大ブームでしたが、そんな中で先代がひょこっと高座に上がって『道具屋』をやってひょこっと降りた。“時間を感じない”というのがいちばんの印象でしたね。それと“これだったらできる”と思ったんですよ。こう言うと“お前なあ”とか言われますが、やっぱりどこかで“できる”と思わなければこの世界入れないと思うんです。

(投手の)ダルビッシュの弟子になっても160キロ投げられないじゃないですか。そこを“いや、俺できるんちゃう?”と思う部分があって入門した。入ってから『大変難儀な道』であったことに気がつきました。人の前で自然に振る舞う、自然にしゃべる、がいかに難しいことか、というのが、思いつまされた35、6年前ですね」

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