上原浩治 ケガや試練超えた「反骨心」 「無理」を、狙え!
10年間在籍した巨人からFA宣言し、09年に学生時代から憧れ続けたメジャー(ボルティモア・オリオールズ)入り。だが5月に古傷の左太もも、さらに右ひじを痛めて故障者リスト入りした。そのシーズンは最後まで登板なし。10年5月に一度復帰するが、再び右ひじを痛めた。
「ケガとの闘いはプロ2年目からなんですが、ケガをした瞬間は間違いなく心が折れてますよ。特に右ひじは初めてでしたし、間違いなく選手生命が終わった、引退かなと、初めてそういう気持ちになりました」
この年からパーソナルトレーナーを務めている内窪はフロリダでのリハビリの日々を「通夜みたいでした」と振り返る。
普通ならば復帰は無理と思える状況からなぜ立ち直れたのか。上原は言う。
「反骨心です」
1998年のドラフトで逆指名した巨人に入団し、1年目に20勝を挙げ投手タイトルを総なめ。エリートコースとしか思えない経歴を持ちながら、上原は常に「反骨心」というキーワードとともに歩み続けてきた。
高校時代は控え 制球力磨く
父が地元の野球チームのコーチで、2歳上の兄がチームで活躍。兄の背中を見て、上原も野球の道に進んだ。小学校時代に所属していた「寝屋川(現・明徳)アスナローズ」でコーチをしていた奥川康夫(66)は、試合に負けたあと上原がチームメートを誘って自主練習に励んでいた姿を思い出す。
「お兄ちゃんのほうが見どころがあったけど、とにかく負けん気の強さはすごかったですね」
中学には野球部がなく、小学校の卒業文集には「高校では、野球がある高校に入り、おもいっきり野球をしたいと思っている」と記した。幸い休眠状態だった地元チームが復活し野球を続けることができたが、地元の東海大学付属仰星高校には一般入試で進学。「あまり目立たなかった」と当時の監督、西豊茂(53)は言う。
同級生にはのちにレンジャーズで同僚となる建山義紀らスポーツ推薦の生徒が7人いた。上級生に理不尽な蹴りを入れられたこともある。上原は著書『闘志力。』で〈運動部ならではの上下関係には辟易し、やり切れなさを感じた〉と当時を振り返っている。エースとして活躍する建山を遠くに見ながら、バッティングピッチャーとしてコントロールを磨いた。