日本の天皇をなお「日王」と呼ぶ人々の複雑感情 「陛下」という呼称にも歴史的背景がある
かつて、ソウルの西部には、迎恩門と呼ばれる、中国の勅使を迎えるための門がありました。朝鮮王は中国の勅使がやって来る時、自らこの門にまで出向き、三跪九叩頭の礼で迎えました。
三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対して行う最敬礼です。皇帝の内官(宦官)が甲高い声で「跪(ホイ)!」と号令をかけると、土下座し、「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」という号令の度に頭を地に打ち付け、「起(チー)」で立ち上がります。そして、また「跪(ホイ)!」で、土下座して同じ行動をします。この土下座のような動きが計3回繰り返されます。
中国の朝鮮支配は長く続きましたが、1894年の日清戦争で、日本が清王朝と戦い、勝利します。翌年、下関条約により、清が朝鮮の独立を承認します。1897年、独立した朝鮮は「大韓帝国」と国号を名乗りました。「韓」は王を意味する雅語で、古代において、三韓にも使われていました。朝鮮王は皇帝となり、「殿下」ではなく、「陛下」と呼ばれるようになりました。
当時、朝鮮の人々はこれを非常に喜び、中国への隷属の象徴であった迎恩門を取り壊し(屈辱を忘れないために、2本の迎恩門柱礎だけを残し)、新しい門を同じ場所に建てました。これがソウル西部の西大門広場に今も残る「独立門」です。
天皇を「日王」と呼ぶ韓国
話が前後しますが、明治維新を遂げた日本の新政府は1868年、国交と通商を求める国書を朝鮮に送りました。しかし、朝鮮はこの国書の受け取りを拒否します。国書の中に、「皇」や「勅」の文字が入っていたからです。
「皇」や「勅」を使うことができるのは中国皇帝のみであり、こうした国書は日本の中国皇帝に対する挑戦であり、容認できるものではない、と朝鮮は考えたのです。これは、華夷秩序という儒教に基づく考え方で、中華に周辺国が臣従することにより、国際秩序(前述の冊封体制)を維持すべきとするものです。
朝鮮はこうした考え方を歴史的に有しており、天皇を「皇」の字のある「天皇」とは決して呼ばず、「倭王」と呼んでいました。近代以降は「日王」と呼びました。中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な「天皇」を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、「天皇」を頑なに拒み続けたのです。
それが今日でも続いています。文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題で、天皇が謝罪すべきと発言しました。日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。
李明博(イ・ミョンバク)元大統領は2012年、天皇陛下を指して「日王」と呼び、「日王が韓国に来たければ、独立運動家に謝罪せよ」と発言したこともありました。
朝鮮は自らの王を「陛下」ではなく、「殿下」と呼び、華夷秩序の従属に縛られてきました。しかし、下関条約後、朝鮮は大韓帝国として独立し、朝鮮王は皇帝となります。朝鮮は華夷秩序から脱却するという歴史的悲願を達成したのです。
韓国が天皇陛下を「日王」などと呼ぶことは、かつて民衆を苦しめた華夷秩序の考え方に後戻りすることになることともいえます。呼称に込めれた意味と歴史的背景、ニュースで見聞きした際、ぜひそんなことにも思いを巡らせてみるといいかもしれません。
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