2代目の義文氏は洋菓子も取り入れ、屋号も「ラ・セーヌ八天堂」に変更。西洋化が進む中にあって、ごく自然な流れだった。孝雅氏が3代目社長になったのは1991年。有名パン屋での修業を経て、26歳の時「たかちゃんのぱん屋」として八天堂をリニューアルオープンした。売れ行きはというと……。
「3年くらいは棚にぎっしりとパンが並んだことはありませんでしたね。なぜなら、並べる前に売れてしまうんです。オーブンから出したばかりの焼きたてをトレーごと運び、『火傷に気をつけてください!』と叫びながら販売したことも。それくらい好調でした」
バブル崩壊直後で、まだ景気がよかった。それに当時、市内には大手コンビニや、朝からオープンしている店舗もない。孝雅氏のパン屋は、早朝から開くことで、朝帰りや早朝出勤をする方の取り込みに成功していたのだ。
その勢いのまま、10年足らずで13店舗にまで拡大。売り上げは年間4億円に上った。しかし、会社の経費で高級外車を乗り回すなど、「考えが間違っていた」と後に反省するような行動にも走っていたという。
「俺の2000万円を使ってくれ」
そして凋落は訪れた。コンビニができ始め、状況が一変したのだ。客を奪われ、赤字に転落。従業員も離れていった。パン屋で独立を目指す人は、繁盛店で経験を積み、独立するという流れが一般的だった。八天堂にも独立志向のある者が多くいたが、低迷とともに見切りをつけ、去っていったのだ。
新しく採用しても、教育をできる余裕はない。それどころか、人手不足ゆえに長時間労働を強いることになり、すぐ離職してしまう。お店を回すには、孝雅氏自身が数店舗を回り、自らパンを焼かないと追いつかない状況だった。睡眠もろくに取れず、疲労困憊で車を運転し、物損事故を起こしたことも。脳震盪を起こして首を痛め、口も血だらけになったが、孝雅氏は病院にも行かず、お店でパンを焼き続けたという。どれだけ追い詰められていたかがうかがえるエピソードである。
しかし経営状況は改善せず、弁護士からは民事再生法の書類も渡された。万事休すと思われた中、栃木県でパン屋を営む弟から電話があった。かけられたのは「俺の2000万円を使ってくれ」という言葉。涙が止まりませんでした、と孝雅氏は振り返る。
「僕はそれまで、父親をどこか見下していました。父は1店舗しか運営していなかったのに、僕は13店舗にまで増やした。社員数も売り上げも圧倒的に違う。自分は父を超えたと思い込み、注意されても耳を貸さなかったのですね。けれど人間として見たとき、こんな立派な弟を育てられてる人なんだと気づいて愕然としました」
その一件が転機となった。孝雅氏のなかにあった傲慢な気持ちが消え、父や弟や支えてくれた人々への感謝の気持ちが自然と湧いてきた。また、これからはつらい思いをさせてしまった社員のために生きていくと誓い、もう一度チャンスをもらえるなら、経営者として必ず再起してみせると決意を新たにしたという。
後に子どもがいる社員のための保育園をつくったり、障害者の就労支援の一環として新工場を設立したりと、社員や社会のために取り組みを続けている同社だが、その原点はこの時に生まれた。
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