顔を突き合わせて、真面目に「最期の家族会議」をしたわけじゃない。だが、抗がん剤治療を受ける際の通院や、合間の散歩時間、食後のだんらんの時間に、秀雄さんはポツリポツリと大事なことを話し出した。
「病院への送り迎えのとき、父と2人で車に乗っていると、突然自分語りを始めるんです。『初めて会社に入ったときはな』とか『あのときはな』とか。いつも過去の話でした。ああ、人生を振り返っているんだなあ、今は聞くときなんだなあと思って、私はただ相槌を打ちながら聞いていました」(綾子さん)
運命の“緩和ケア医”との出会い
先々の不安や心配はもちろんあっただろう。しかし、綾子さんも満江さんも、秀雄さんが話し始めるまでは、無理に会議を開いて治療の方針について提案をしたり、延命治療の有無を問いただしたりは決してしなかった。ただ、秀雄さんが口を開いたときは、その声に耳を傾け、自分たちの考えを伝えた上で、秀雄さんが望む道を進めるよう、そっと背中を押した。穏やかな話し合いが何度も行われ、その度に秀雄さんが望む形で、次の道が開かれていった。
抗がん剤治療をやめたいと秀雄さんが伝えたときもそうだった。
「何クール目かの治療の合間に、父が抗がん剤治療を『もうやめたい』と言ったんです。次の治療の予約をキャンセルしてくれと。私はもともと抗がん剤なんて苦しませるだけだと思っていました。でも最初は父が頑張るというので応援していたんです。ただ実際は、どんどん体力が落ち、家でも寝ているだけ。今だと思って『そんなにしんどいならやめてもいいやん。少し体力が回復したらまた散歩もできるやん?』とそのとき、私の思いを話しました。本人も『うん、そうやなあ』って」(綾子さん)
「私自身は、次の治療でもしかしたら少しよくなるかも、という淡い期待はありましたね。でも夫と娘と話していて、これが夫の望む生き方なんだなと思えたんです」(満江さん)
家族会議で納得して決めたとはいえ、治療をやめた先にどんな最期が待っているのか、不安は募った。「最悪の場合は血を吐いたり、腸閉塞で苦しむ場合もある」と主治医に告げられ、恐ろしくなった母娘は、いつか訪れたホスピス病棟にある山奥の病院に改めてコンタクトを取る。
「ホスピスを探していたことは父には伝えていなかったけれど、話す場を設けて、『こういうホスピスがあるけど1回行ってみる?』と聞いてみたんです。『そうやなあ』というので父を連れて行くと、窓の外の景色以上に、そこで出会った緩和ケア医の先生を父がすごく気に入って。先生には父だけでなく私たちもすごく救われました」(綾子さん)
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