村上春樹が「直木・芥川賞」を受賞できない理由 今年デビュー40周年迎える国民的作家の謎
1979年のデビュー作『風の歌を聴け』、翌年には『1973年のピンボール』と、春樹は芥川賞の候補に2度選ばれた。ついに受賞には至らなかったが、当時の芥川賞選考委員が話し合った結果、「受賞させるほどのものではない」と判断したからだ。答えはそれ以上でもそれ以下でもない。
文芸評論家の市川真人に『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)という、その名もズバリの本がある。そのなかでも、当時の委員が春樹作品をいかに理解できなかったかが細かく分析されている。要するに、選考委員がこの新人作家の将来的な活躍を予見できなかった、と言うしかなく、当の委員の1人大江健三郎が、のちに「私は(中略)表層的なものの奥の村上さんの実力を見ぬく力を持った批評家ではありませんでした」(2007年・新潮社刊『大江健三郎 作家自身を語る』)と語っているとおりだ。
春樹の作品を評価できなかったなんて無能もいいところではないか。確かにそのとおりかもしれない。しかし、総じて直木賞や芥川賞は社会一般から評価されすぎている。期待されすぎている。そのくらいの失敗やとりこぼし、世間の文学観とのズレは、あるほうが自然だろう。
芥川賞についてはもう「アガリ」
そもそも芥川賞は、対象となる作家と作品が限定されているかなり特殊な文学賞だ。新人作家による、文芸誌などに載った250枚程度までの小説しか対象にならない。春樹はデビューしてかなり早い段階で、文芸編集者たちから「新人の域を抜けた」存在と見なされ、そのため3度目以降の候補入りの機会は訪れなかった。
このあたりを春樹自身の回想から引いてみる。
またほかの新人と違って春樹の小説は初期の頃からよく売れた、という記録がある。1983年に刊行された『カンガルー日和』の頃には「村上春樹は完全に10万部作家になりました」とも言われていた(『出版月報』1983年10月号)。
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