弟子が語るドラえもんの知られざる"黒歴史" 国民的人気漫画はどう作られていたのか
──アニメ化に際して、原作者はノータッチなんですか?
ええ、漫画は藤子スタジオで描くけど、アニメはアニメ制作会社が作る。暇を見てチェックすればよかったんだけど、そんな暇がなかった。結局、でき上がったものを見せられて終わりです。
当時はテレビアニメが終了したら雑誌連載も終了というのが定番で、藤本先生は「もっと評価されてもいいのになあ」と落ち込んでた。そこで僕は「原作は数百倍面白い。絶対『ドラえもん』をやめちゃダメです」と必死に訴えました。
『ドラえもん』の人気が出たのは、その後単行本が出てからなんです。出版社と交渉して、それじゃ売れない覚悟で全6巻出してやるという話になった。連載してた学年誌より、単行本のほうが子どもから大人まで広く手に取ってもらえる。
すると、こんな漫画があったのかとジワジワ人気が出て、100万部、200万部、1000万部、最終的には45巻1億部以上売れました。その後、今度はテレビ朝日でアニメ化され、ドラえもんは世界中に羽ばたいていった。
大卒者の初任給よりもらっていた
──山あり谷ありの現場の空気感が手に取るように伝わってきます。
藤子スタジオのアシスタントは7〜8人で、藤本先生にはもともと先生のファンだった僕1人、ほかは全員安孫子先生についていた。藤本先生が超マジメで寡黙なのに対し、安孫子先生は社交的で話しやすいというのもあったかな。
一方の人手が足りないと、アシスタントはそちらへ手伝いに回るので、そうとう忙しかったのは事実です。10代最後の2年間、僕ももう無我夢中でした。連日徹夜とか残業月200時間、300時間は当たり前。今ならブラックですね(笑)。その分、たぶん業界一の好待遇で、残業代に夜食代、少し多めの深夜手当がついて、当時大卒サラリーマンの初任給より高かった。
──1987年に別々のペンネームにする前も、2人の先生が共同で何かすることは、あまりなかったんですか?
『ドラえもん』にはいっさいタッチしてなかった安孫子先生が、何かの場でファンから「ドラえもんを描いてください」と色紙を渡されて、全然似ていないドラえもんを描いたりはしてましたよ(笑)。確かに藤子不二雄だけど自分は違うんだ、なんて子どもには言えませんから。
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