ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史 現在は上野東京ライン開業で存在感高まる
順風満帆だった手賀沼ディズニーランド計画は、起工式からわずか半年後の1963年初頭から一転。瓦解を始める。
全日本観光開発の経営は行き詰まっており、手賀沼を大規模開発できる運転資金はなくなっていた。工事は進まず、当初オープン予定にしていた1964年には間に合わない。
遅々として進まない工事から、地元自治体の我孫子町と沼南町は全日本観光開発の経営悪化を察知した。そして、開発を進めない全日本観光開発に不信感を芽生えさせていく。
地元自治体からの疑念を払拭するべく、全日本観光開発は社長を交代させた。新社長は、朝日土地興業の丹沢善利だった。朝日土地興業は、総合レジャー施設の船橋ヘルスセンターを経営する都市開発会社で、朝日土地興業社長を新社長に就任させたことで手賀沼ディズニーランドの開発意欲があること我孫子・沼南に示そうとした。
しかし、丹沢は武州鉄道事件・虎ノ門公園跡地払い下げ事件・吹原産業事件といった政財界の汚職に次々と巻き込まれて、身動きが取れない状態だった。
こうしたトラブルに加え、手賀沼の水質悪化がトドメを刺す。手賀沼ディズニーランド問題は千葉県議会でも議論された。手賀沼の水質悪化により、遊園地としてふさわしい土地ではないとの結論を出し、千葉県は建設予定地を宅地転換することを早々に決定。こうして、手賀沼ディズニーランド計画は終焉を迎える。
手賀沼に代わる候補地は?
手賀沼ディズニーランド計画の破綻後、夢を諦めきれなかった京成・三井不動産・朝日土地興業の3者は、改めて東京ディズニーランドの候補地探しに奔走した。
3者による新プロジェクトは、手賀沼ディズニーランドとは別のプロジェクトになった。そうした経緯もあり、新プロジェクトでの顔ぶれは手賀沼ディズニーランドとは異なる。
新たなプロジェクトでは、富士山付近をはじめ複数の候補地が挙がったが、我孫子のように公的機関が発行する広報紙で大々的に事前告知されることはなかった。最終的に、ディズニーランドの建設は千葉県浦安の埋立地に決まった。そして、手賀沼ディズニーランド計画の破綻から約20年の歳月を経て、1983年にめでたく東京ディズニーランドが開園する。
現在、東京ディズニーリゾートの最寄り駅は、舞浜駅となっている。東京ディズニーランドの開園時には、まだ京葉線は建設すらされていない。オリエンタルランドの株主でもある京成はアクセス路線を計画したが、実現しなかった。
他方、手賀沼ディズニーランド計画が消滅した後も、手賀沼の水質は悪化の一途だった。その最大の理由は、高度経済成長期に常磐線沿線および周囲の自治体が宅地化したことだった。
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