ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史 現在は上野東京ライン開業で存在感高まる
手賀沼周辺には、当時としては珍しいゴルフ場も整備された。手賀沼で釣りやゴルフもプレーできる我孫子には、休日になると常磐線に乗って東京から多くの行楽客が押し寄せるようになった。
古都・鎌倉と肩を並べるほどの都市に成長した我孫子だったが、その人気は戦後から雲行きが怪しくなっていく。手賀沼の水質が急速に悪化し、とてもリゾート地にふさわしいとは言えない環境になっていたからだ。
そこで、役場は起死回生策として手賀沼にモーターボートレース場の建設を発案する。
当時、公営競技は右肩上がりに売り上げを伸ばしており、その収益は地方自治体財政に大きく貢献していた。競艇場の建設は、観光振興と財政への貢献という2つの利点から推進された。
しかし、競艇場を開設すれば、治安悪化は避けられない。出入りする人たちによるゴミ問題も深刻になる。手賀沼のさらなる水質悪化を招く懸念もあった。住民の間には反対意見も根強く、手賀沼の競艇場建設は我孫子を二分する争いに発展した。
この争いは、町長選に反対派が勝利したことで終息する。当然ながら、競艇場建設も撤回された。
起工式も実施されたが…
競艇場建設が撤回されたとはいえ、我孫子の衰退を食い止める策を講じなければならない。町役場は、新たな我孫子振興策として東京五輪のボート競技会場として手賀沼を使用してもらおうと働きかけた。しかし、これはあっけなく戸田に敗れる。
こうして、我孫子振興と手賀沼の活用策は暗礁に乗り上げた。そんな折、冒頭の手賀沼ディズニーランド計画が浮上した。
我孫子にとって、手賀沼ディズニーランド計画は渡りに船だった。開発を担当する全日本観光開発会長に前・東京都知事の安井誠一郎を据えた背景には、政治力を取り込むことだった。これまで不可侵とされてきた手賀沼の埋め立て工事は、政治力をもって可能にした。
また、遊園地経営のノウハウを得るために、全国各地で遊園地を経営していた後楽園スタヂアム社長の真鍋八千代も取締役に加えた。計画に前のめりになっていた町役場は、早々と「広報あびこ」で手賀沼ディズニーランド計画を詳報。それから1年半後には、手賀沼の畔にある公園で起工式が実施された。もはや、手賀沼一帯にディズニーランドが開園することを疑う関係者は皆無だった。
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