ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史 現在は上野東京ライン開業で存在感高まる

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手賀沼ディズニーランド計画を最も歓迎したのは、我孫子だった。その歓迎ぶりはすさまじく、「広報あびこ」の1961年1月号では見開き2ページを割いて手賀沼ディズニーランド計画を紹介している。

「広報あびこ」に掲載された手賀沼ディズニーランドの計画図。現在、同地は手賀沼公園や住宅地が整備されたほか、県立我孫子高校が開校している(画像:「広報あびこ」1961年1月号より)

同紙が発行されたときは、まだ誘致の段階。正式決定前にもかかわらず、行政当局が広報紙を使って大々的に構想を住民に告知したのだ。その様子からも、我孫子がいかに手賀沼ディズニーランドを熱望していたかがうかがえるだろう。

我孫子が手賀沼ディズニー計画に熱を入れていたのは、なぜか。それは日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が1896年に駅を設置して以来、我孫子は手賀沼とともに観光都市、もっと詳しく言えば高級別荘地として発展してきたことと関係がある。

手賀沼周辺は別荘地に

江戸期、我孫子は水戸街道の宿場町としてにぎわった。明治に入って土浦線の建設が始まると、我孫子は積極的に駅用地を提供する。駅開設に尽力した飯泉喜雄は、その功績を称えられる人物だが、我孫子駅が開設された当時は地主の1人にすぎなかった。後年、そのリーダーシップが花開き、飯泉は町長を務めた。

土浦線開業後の1901年には、成田鉄道(現・JR成田線)が開業。我孫子駅は日本鉄道と成田鉄道の分岐点となり、大いににぎわうことになる。農村地帯だった千葉県・茨城県は東京と直結。土浦線には、朝採れた野菜を東京で売り歩く行商人が目立つようになった。特に、関東大震災で東京が壊滅状態になると、被害が軽微だった千葉・茨城から多くの行商人が野菜を売るために列車に乗った。

また、昭和に入ると、立て続けに恐慌が発生。日本経済は大混乱に陥った。国際都市として経済発展を続けていた東京は物価が高騰。満足に食糧が手に入らなくなった。こうした東京の食糧危機を救ったのが、千葉・茨城の行商人だった。数多くの行商人が東京に東京と茨城を行き来し、常磐線や京成線では専用列車が運行されるほどの盛況ぶりを見せた。

その土浦線の開業が我孫子に大きな変化を起こした。東京から約1時間という好アクセスに加え手賀沼という水辺空間があることから、富裕層が次々と別荘地を構えたことだった。

我孫子駅から南側に約800mといった至近距離に、広大な手賀沼がある。この手賀沼の水辺空間と緑豊かな自然環境が、リゾート地・我孫子の人気を押し上げた。

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