駅の鉄道文字、手書きでなくても「味」はある 安全と視認性、フォントを決める本当の理由

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現在ではパソコンに打ち込んだ文字を拡大したり配置を調整したりして出力することもできるが、手書きの文字は、ズバリその大きさのままで、余白などの構成も計算して一発勝負で書かなければならない。それが、中西さんが親しんできた書道にも通じるところだ。

「かつて駅の看板などを書いていた職人さんに、現役時代を思い出して書いていただいたことがあるのですが、目の前で筆先から文字が生み出されるのを見るのは感動でした。こうやって生まれていたのだな、と。私が目にしていた文字は一見同じに見えて、実は書きぶりによって個性が出ています。書道の世界では『書は人なり』と言いますが、まったく同じことだと実感したのです」

すみ丸ゴシックを生み出した人物

鉄道文字を研究していることが知られるようになると、人づてに紹介されて現場を担った人と話をする機会にも恵まれるようになっていった。その1人、佐野稔氏は、先ほどの須田寛氏に認められた、すみ丸ゴシックの生みの親だ。

佐野氏は、書家で看板職人でもあった父の仕事を受けて、新陽社で1954(昭和29)年から当時国鉄で採用していた丸ゴシック体を書き、やがて「佐野工房」を設立して独立する。その仕事に追われるなか、新陽社から「角でも丸でもない、角の隅を取ったような文字で」と、新しい書体の考案を依頼された。そうして生まれたのが「すみ丸」(当初からそう通称されていた)だった。

中西さんは言う。

「1960(昭和35)年ごろの時代は、電気掲示器にアクリル板が使われるようになりましたが、それには黒いアクリル板から糸鋸で文字を切り出す繊細な作業が必要です。それを短時間で効率的に行うには、糸鋸の刃をわずかなカーブで切り進められる、ほどよい丸みが適切だったのだと考えられます」

佐野氏は1961(昭和36)年に佐野工房をエムエスアート社として法人化し、電気掲示器の大量受注に応える。その作業量に対する必要から、作業効率がよく美しいすみ丸ゴシックへと改良していった。

「佐野さんは、『何年か前のすみ丸ゴシックを見て、あまりうまくなかったなと思わなければ、文字に進歩はありません』とおっしゃっています。そのような思い入れで進化させる書体を、発注側にいた須田寛さんは高く評価しつつ、また、時には協力会社を介して難しい手直しを求めるなどして激励したのです」

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