「マカロン」を日本人に知らしめた男の機微 ピエール・エルメは、なぜ日本で成功できたか
「特に資金繰りはつねに悩みの種だった。当時、日本の銀行は海外資本の会社には通常お金を貸さないし、フランスの銀行は、日本みたいな遠い国で事業をやっている会社にお金を貸すことに慣れていなかった。それでもなんとかして投資を続ける手段を考えなければならなかった」と、ルデュ氏は振り返る。
最大の危機は、2011年3月の東日本大震災の後にやってきた。3月といえば、ホワイトデーシーズン。日本のパティスリーにとって最も重要な日である。
「地震があったとき、私たちはすでにマカロンやケーキを日本中に届けるべく、トラックを走らせていた。が、地震が起こった直後からキャンセルが相次ぎ、膨大な数のマカロンが製品センターに戻ってきた」とルデュ氏。「結局、戻ってきたマカロンは日の目を見なかった。それどころか、しばらくはマカロンやケーキを食べるような雰囲気ですらなかった」
新たな工場「アトリエ」
そんなピエール・エルメの未来に向けたビジョンが垣間見えるのが、東京・江戸川区に新たにオープンした「アトリエ」である。ここはもともと、エレベーターの予備部品を製造する工場だったが、現在は最新の機械を備えたである。
チョコレートとキャラメル、バニラのにおいがするこの工場ではマカロンが次々と製造される。日本政府が「ワーク・ライフ・バランス」や「生産性」の改革に言及するのをよく耳にするが、この会社ではそれが実践されているようだ。
ルデュ氏は言う。「私は14歳の時に働き始めた。皿洗いやオーブンの点火が私の仕事だった。今の時代、人間はこれまで担当してきた骨の折れる作業を大幅に減らし、代わりに創造的なエネルギーを使うことができる。弊社の新しい機械は、まさにそれを目的としている」。
「新しい機械を導入して、毎日の10時間シフトを2.5時間削減できた。つまり25%の前進だ。短縮できた時間分、かかっていた人件費を減らすか、その時間をほかのことを改善するために充てることができる」と、パティスリー製造工程の担当者として、当初からかかわってきたベテラン社員のクリストフ・ドラビエ氏も話す。同社はこれにより、特別注文のケーキやマカロンなど、より個人向けの注文に対応できるようになった。
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