万世橋・汐留、大変貌でも残った「鉄道の足跡」 再開発によって廃止駅の街に再び脚光

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同施設は単なるショッピンモールではなく、万世橋駅が有していた“鉄道”というエッセンスをふんだんに盛り込んでいる。コンコースだった1階部分には、飲食店や雑貨店が入居。そこかしこに、往時の部材や鉄道部品が配されている。

2階は展望デッキ「2013プラットホーム」という名前のついたガラス張り空間になっており、行き来する電車を間近で眺めることができる。

汐留駅跡地の再開発

役目を閉じた後も新たな役割を与えられた万世橋駅は希有な存在といえるが、近隣には同じような来歴の駅がある。それが、1986年に廃止された旧国鉄の汐留駅だ。

汐留駅は1872年に新橋駅として開業。日本初の鉄道として、横浜駅(現・桜木町駅)とを結んだ。横浜駅は開港地であり、多くの外国人でにぎわった。海外から輸入される舶来品や文化は文明開化の象徴にもなり、それまで寒村だった横浜は一気に国内屈指の最先端都市となっていく。

一方、東京側のターミナル駅は、外国人の住区と定めた築地居留地や明治新政府が海外使節団を饗応するために建設した延遼館があることが考慮されて汐留に開設することが決められた。

しかし、1914年に東京駅が開業すると新橋駅は貨物駅に転換させられる。貨物駅化したことで、新橋駅は汐留駅と改称したのだ。その代替として、東京駅―品川駅の中間に旅客駅として2代目となる現・新橋駅を開設。

旅客駅から貨物駅になったことで駅周辺から人の行き来は消失し、汐留駅や周辺エリアは発展から取り残されるかと思われた。

しかし、東京駅が開業する直前に第一次世界大戦が勃発。大戦の影響で、貨物輸送量は急増。汐留駅界隈は活況を呈した。むしろ貨物需要が汐留駅のキャパシティを上回ることになったため、政府や鉄道当局は汐留駅の改良に着手するほどだった。

戦後も、汐留駅は日本の物流を支える駅として存在感を発揮した。高度経済成長期、まだ自動車やトラックの台数は少なく、道路も十分に整備されていなかった。鉄道は物資輸送の主役だった。

汐留駅からは築地市場へ鮮魚を運ぶ列車が運行されており、踏切も存在した。現在も踏切遺構が残され、汐留貨物駅や鮮魚列車を後世に伝える(撮影:尾形文繁)

増える貨物需要に応えるべく、汐留駅は1960年から1967年にかけて取り扱い能力を強化するべく貨物ヤードなどの拡張に着手した。

同時に、効率よく運行できるように貨物列車の性能向上も進めた。1959年にはコンテナ列車を、1966年には築地市場用に鮮魚専用高速冷蔵貨車レサ10000形を導入している。

貨物列車の輸送力向上や貨物駅の取り扱い能力の強化を図ったものの、物流業界は貨物列車からトラック輸送へとシフトしていった。物流の変化に伴い、汐留駅も貨物ターミナルとしての役目を縮小せざるをえなかった。

1973年に東京・品川区に東京貨物ターミナル駅が部分開業し、1979年には全面開業。これが、汐留駅に引導を渡すことになった。

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