私がそれでも道徳の「教科化」に賛成するワケ 「自由、民主主義、愛国心」を論理的に考える

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そして、まったく同様のことが、愛国心やナショナリズムについても言えます。これらもまた、自由や平等や人権とまったく同様に、民主主義の国家と社会が成り立つために必要不可欠な道徳的価値なのです。

民主主義が、「ある種の」愛国心やナショナリズムを必要とするということは、近年の政治哲学研究では、ほとんど常識に属する事柄でしょう。いや、近年の研究を待つまでもなく、すでに、あの「近代民主主義の理論的完成者」と呼ばれるジャン=ジャック・ルソーが、はっきりと、民主主義の下では「市民は国家のために死ななければならない」と断言していたのです。

問題は、愛国心やナショナリズムを教育したり強制したりすること自体にあるのではなく、国民に教育し強制すべき「ある種の」愛国心やナショナリズムとは、どのようなものなのかという点にこそあるのです。

教科としての「道徳」は「哲学」であるべき

それを「考え」させるのが、「道徳」という教科であるべきではないのでしょうか。

文部科学省は、これからの「特別の教科 道徳」は、「考え、議論する道徳」であるべきだと言っています。結構なことでしょう。だったら、私たちは、仰せのとおり、「道徳」の授業で、それを「考え、議論する」べきです。「自由」とは何か。「国家」とは何か。「民主主義」とは何か。これらを、論理的に、「考え、議論する」べきなのです。

つまり、実は教科としての「道徳」とは、本来、「哲学」と同義であるということです。

「道徳の教科化」に反対する多くの論者は、しばしば、決まり文句のように、「数学や理科などの教科と違って、『道徳』には基礎となる学問がない」などと言います。おかしな話でしょう。彼らは、大学で哲学を学ばなかったのでしょうか。そして、それを通して、自分自身で、「自由とは何か」「国家とは何か」といった問題について、「考え、議論」したことがないのでしょうか。

たぶん、そうでしょう。だから、たしかに彼らには、「道徳」を教えることはできないでしょう。自分自身が学んだことがなく、考えたことがないことを、子どもたちに教えることなど、できるわけがないからです。

私が、「道徳の教科化」という考え方そのものには賛成である理由は、ここにあります。学校の道徳教育は、哲学教育でなければなりません。そして、そのためには、それなりにきちんとそれを学んだ者が、教壇に立たなければならないのです。少なくとも、カントの「自由」と「自律」や、ルソーの「市民」と「国家」など、近代の人間と社会と国家の基礎にある考え方の概要くらいは、説明できる人間でなければ、本来の「道徳」の授業など、できるわけがありません。

ありていに言ってしまえば、現在遂行されている「道徳の教科化」には、まったく賛成はできませんが、しかし、どうにかそれを、いわば逆手にとって、教科となった「道徳」を、「自由」や「民主主義」や「愛国心」について論理的に考える、本来のあるべき哲学教育の場へと再編していくことを考えていくべきではないかと、私は思うのです。

古川 雄嗣 教育学者、北海道教育大学旭川校准教授

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ふるかわ ゆうじ / Yuji Furukawa

1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。現在、北海道教育大学旭川校准教授。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『大人の道徳ーー西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『看護学生と考える教育学――「生きる意味」の援助のために』(ナカニシヤ出版、2016年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)、共著に『道徳教育はいかにあるべきか――歴史・理論・実践』(ミネルヴァ書房、2021年)などがある。

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