川崎「駅前」のにぎわいはなぜ続いてきたのか キーワードは「映画」と「商店会連合会」
しかし高度経済成長期に入ると、より魅力的な商品がそろう東京都心への買い物客の流出が始まった。
当初は、当時国鉄川崎駅前の地上を横切っていた京急の線路を渡らないと中心市街地へ行けないことが問題視されたが、1966年に京急が高架化されると線路をくぐって中心市街地と行き来ができるようになった。それでもなお、クルマや人でごったがえす川崎駅前を抜けて商店街や百貨店に行くのは大変だったようだ。また、1960年代には横浜駅周辺が栄えはじめたこともあり、川崎の地盤沈下が鮮明になっていく。
この事態に対し、川崎の百貨店は増築によって品揃えを増やす方針を打ち出し、1972年に小美屋、1973年にさいか屋が相次いで増築を行った。この際にさいか屋は地上8階・地下3階の大型店舗となった。立地が不利だった岡田屋は1973年に一度建物を壊したものの、建設資材の高騰があり、1980年にようやく建物を現在の位置に新築し「岡田屋モアーズ」となった。
一方で小美屋は1978年に赤字に転落、同じ頃にニチイ(のちのマイカル)傘下に入ったものの苦戦し、1996年には閉店している。高度経済成長期の川崎は、商業的にはかなり苦戦したといえよう。
イメージ転換で苦境を脱出
だが、1980年代後半に入ると続々と大型開発が行われ、川崎は次第に若者や女性も来やすいまちへとイメージの転換が進んでいった。
1985年には国鉄の川崎駅ビルが建て替えられ、現在の東西自由通路が誕生。翌1986年には東口に地下街「アゼリア」が開業し、さらに1987年には美須鐄が作った美須興行グループが老朽化した映画館群をまとめ、シネマコンプレックス「チネチッタ」が生まれた。1988年には東口すぐの大日日本電線(三菱電線)工場跡に「川崎ルフロン」、駅ビル「川崎BE」が完成した。「川崎ルフロン」は、工場跡を開発した商業施設として丸井と西武百貨店を誘致した。
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