「中東の憎悪」がなぜか欧州に向かう根本理由 戦火の「欧州・中東200年史」から読み解く
石油で潤う湾岸産油国の王族は、同胞より石油を必要とする欧州の政治家と手を組み、富をため込んだ。そんな中、1979年、アラブの盟主エジプトが米国の手引きでイスラエルと和平条約を締結すると、「世俗」世界に対する失望がアラブ地域全体へと広がることになるのである。
貧しい者はつねに貧しいという超格差社会の中、人々は救いを現世ではなく来世、つまりイスラーム過激主義に見つけたのであった。
高度成長期にも搾取・利用されたアラブ人
欧州は高度経済成長期においても、アラブ人を搾取・利用した。たとえばフランスには北アフリカから来たアラブ系移民が2世・3世を含め350万人以上、イスラーム教徒は全体で480万人以上が生活しているとされている。
アラブ系移民の増加は、政府が1960年代後半から1970年代にかけての経済成長期に、自動車産業などの製造業を支える労働力として徴集したことが始まりであった。もともと植民地統治時代からフランス語教育を施したことで、彼らには言語的障壁がなかったのだ。
ところが、オイルショック以降、経済が低迷すると、徴集されたアラブ系移民は離職を余儀なくされ、貧しいまま捨て置かれてしまった。2世世代は、貧しさゆえに仕事を優先せざるをえず、一方で使い捨てにされた父親世代と同様に就職差別に苦しみ、アイデンティティを模索し続けることになった。
それはトルコ系移民をはじめイスラーム教徒500万人以上を抱えるドイツや、パキスタン系移民を中心に270万人が住む英国でも同様であった。アラブ系であってもイスラーム教徒でない者もいる。逆も同様である。だが、アラブ人とイスラーム教徒は同一視され、社会から疎んじられた。
1990年代に入ると、さらに彼らの立場は厳しいものになる。アルジェリアで1992年半ば以降、政府とイスラーム過激派組織の武装イスラーム集団(GIA)との間で内戦となった。GIAは、アルジェリア政府を支持したフランスにおいてもテロを本格化させた。エールフランス航空機ハイジャック事件(1994年12月、外交官含む乗客3人および実行犯4人全員が死亡)、パリ市内の地下鉄サンミッシェル駅爆弾テロ事件(1995年7月、10人死亡)、同凱旋門駅爆弾テロ事件(同年8月、17人負傷)などGIAの関与が指摘される事件が続発した。
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