全国の高校で導入中、活動記録サイトの正体 学校行事など「学力以外」が受験の判断材料に
確かに、データが蓄積され、検索性や一覧性を高め、さらにはそれを数値化することもできれば、評価者にとっては便利で合理的かもしれない。評価や選考の効率は圧倒的に増すだろう。評価の結果や基準を察知した教育者は、どんな人材が「選考に通過する人材なのか」を認知し、そういった人材を育てることで「通過できる人材」を増やせるかもしれない。では、それが被評価者、つまり学習者の成長や発達にとってはどうだろうか。創造性や主体性、協働する力といった自由で多様な価値は育まれるだろうか。
ツールはあくまでツールである。しかし便利であればこそ意図しない帰結を生むこともある。だからこそ教育者やそれを使う選抜者(大学入試に携わる方々や就職面接にかかわる社会人)がそれに自覚的であるかということが重要なのである。つまり利用者側の哲学が問われるのだ。
「主体的に隷属する若者」が育つ懸念
フランスの社会学者ミッシェル・フーコーは『監獄の誕生』のなかで強制や抑圧といった権力観に代わる権力観として「規律訓練型権力」という概念を提唱した。これは、従来の法や支配のように単に人を抑圧するのではなく、訓練や教育を通して力をうまく引き出すことで人々を従わせるという「権力」の考え方である。イギリスの哲学者であるジェレミー・ベンサムが考案した「一望監視装置(パノプティコン)」はこの「規律訓練型権力」の例として挙げられる。
中心に塔が、周囲に円環状に独房が配置され、それぞれの独房には窓が設置されているがその窓は角度や高さによって塔からしか見えなくなっている。この仕組みによって、牢屋に入れられた者はいつ看守に監視されているかわからなくなり、架空の視線に怯えるようになり、そして”主体的に”自分自身を監視するようになるのだ。この権力の怖さは監視者が不在でも発生してしまうということだ。
大学受験や就職活動に際し、大人が子どもを監視するための装置として「ポートフォリオ」が機能したとき、そこには新しい権力が生まれ、たとえ大人が意図しなくても隷属する若者が育っていく可能性さえあるのだ。そうなってしまったとき、「JAPAN e-Portfolio」が評価したい価値として掲げた「主体性」は、本当の意味では芽生えないだろう。
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