北朝鮮が煽っても変わらない「竹島」の真実 国際法上の整合性では日本が優位なのだが…
日本海に浮かぶ竹島は、隠岐から北西に158キロ、島根県本土からは211キロ離れている。鬱陵島からの距離は88キロで、韓国からは217キロ。日韓両国の本土からは、ほぼ等距離に位置している。その構成は男島と女島の他、無数の岩礁でできており、かつてはアシカ漁などが行われていた。
1905年に閣議で「竹島」と命名
竹島が歴史に登場するのは17世紀の初め頃。米子の大谷家と村川家が幕府の許可をとって漁業を始めた。1696年に幕府は鳥取藩に鬱陵島渡航禁止令を出したが、竹島はその対象から除外されている。1903年には隠岐の中井養三郎がアシカ漁を始め、翌1904年に明治政府に領土編入と貸し下げを願い出た。そして1905年に閣議で「竹島」と命名。その際に日本政府は、竹島を先占していることを確認している。
韓国併合は1910年だ。よって「日本に併合されたときに竹島も併合された」という韓国や北朝鮮の主張は正しくない。それ以前にすでに竹島は日本領と確認済みだ。
そもそも竹島が問題化したのは、韓国が1952年1月18日に「李承晩ライン」を引き、その中に竹島を組み込んだことに始まる。なぜ韓国が李承晩ラインを引いたのか。その理由は1951年9月に開かれたサンフランシスコ平和会議だ。韓国は「戦勝国」として同平和会議への参加を希望したが、アメリカが却下したため叶えられなかった。これをあきらめきれない韓国は、翌年には日本が国際社会に復帰するため、その前に既得権益をつくっておこうと考えたのである。
李承晩ラインは日韓基本条約が締結された1965年6月22日まで継続したが、その間に李承晩ライン内に入った328隻の日本漁船が拿捕され、3929人が抑留された。また死傷者は44人に上る。日韓基本条約締結の際に竹島については「日韓両国の紛争の平和処理に関する交換公文」を取り交わしたが、実際には解決しなかった。
国際海洋法条約が1994年に発効して以降、EEZ内の海洋資源にも注目が集まるようになったが、竹島周辺には日本漁船は近づくことすらできなくなっていた。
このように韓国によって不法占拠されている竹島だが、平昌五輪で使用された南北統一旗に描かれた地図には竹島は記載されていない。政治的紛争を嫌った国際オリンピック委員会が、記載を禁じたためだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら