野中広務氏が映した自民党の「強さ」と「弱さ」 「反共」「成長」で台頭、ハト派リベラル貫く

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自民党幹事長時代には「影の総理」と呼ばれた。写真は2000年当時(写真:ロイター/アフロ)

内閣官房長官や自民党幹事長などを歴任した野中広務氏が1月26日、死去した。92歳の生涯は波瀾万丈。地方政治家から国政の主役まで、自民党の中枢を歩んだ政治人生だった。それだけに、野中氏の政治経歴は、この政権党の「強さと弱さ」をくっきりと映し出してもいる。

野中氏は「大正世代」である。1925年(大正14年)の生まれ。戦争の悲惨さを体験し、戦後は京都で園部町議、町長として地方政治を担った。その後は自民党京都府議として、共産党が中心となっていた府政と全面対決。1978年には自民党主導の府政を樹立して、自らは副知事に就任した。「反共」は野中氏の原点だった。1955年に結党された自民党の原点が「冷戦時代の反共」だったことと軌を一にしている。

派閥政治の下、地方議員から自民党の権力者に

1983年の衆院補選で初当選。57歳という「遅咲き」だった。自民党の最大派閥、田中・竹下派で力をつけた。田中・竹下派は、田中角栄、竹下登両氏を頂点とする「族議員の総合病院」と呼ばれた。建設、農業、社会保障、郵政などの官僚OBや専門議員を擁し、所属議員の地元から寄せられる陳情も機能的に裁いた。それが「選挙での強み」にもなり、さらに派閥が拡張していく。自民党の派閥政治の典型であり、「政官業の鉄の三角形」が作られた時代だった。それは、政治と行政が高度経済成長を牽引した枠組みでもあった。その中で、野中氏も建設、農業、郵政などの分野で「族議員」として活動を続けた。

1987年には竹下氏が首相に就任。野中氏は「若手」として政権を支え、消費税導入などの成果をあげた。しかし、政官業の癒着は、リクルート事件などさまざまなスキャンダルを引き起こす。派閥政治の根源と言われた衆院の中選挙区制が批判され、政治改革論議が高まる。一方、世界的には米ソの冷戦構造が崩壊。「ソ連と対抗する防共の砦」としての日本の役割が大きく変容する。

そして、ついに1993年の総選挙で自民党は敗退。結党以来、初めて政権の座から下りた。野中氏にとっても大きな挫折であった。しかし、野中氏は、類いまれな情報収集力を発揮。竹下派を出た小沢一郎氏が牛耳る細川護熙非自民連立政権を徹底的に攻め立てた。細川政権は8カ月で倒れるが、政治改革は実現。衆院に小選挙区比例代表並立制が導入される。派閥政治は根っこから変革を迫られ、自民党は政権交代の可能性がある政治システムに組み込まれていく。

経済面では、バブルが崩壊し、高度成長の時代が終焉。新しい経済社会のあり方を模索すべき時代だったが、自民党は具体的な進路を打ち出すことができなかった。1994年、野中氏は、加藤紘一、亀井静香両氏らとともに非自民政権に代わって村山富市社会党委員長を首相とする自民、社会、新党さきがけの連立政権を樹立。自民党が長年のライバルだった社会党と連立を組むという「奇策」だった。

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