中学高校生が「シンデレラ」を読むべき理由 ディズニーだけでは捉えきれない多層な世界
女の子だけでなく、男の子でも『シンデレラ』という物語を知っていると思い込んでいるけれども、それはディズニーのアニメを見てわかったつもりになっていただけで、ごく一部のものでしかない。でも、いろんな『シンデレラ』を読んでいくと、大きく分ければペロー版とグリム版のふたつがあって、内容がずいぶん違うことを知るようになります。
そこで興味を抱けば、原書のペロー版とグリム版に、今度は自分から手を伸ばしていくでしょう。なかには、ペロー版からフランスの宮廷に関心をもつ子が出てくるかもしれないし、グリム版の隠されたシンボル(「灰」や「靴」)の意味を研究しようと思う子が出てくるかもしれません。
「読書の学校 『シンデレラ』」のもとになった筑波大学附属中学の授業でも、事前は「『シンデレラ』なんて単純なおとぎ話だと思っていた」という子が大半でした。でも授業後は、いろんな『シンデレラ』があって、それぞれの物語の背景も初めて知ってとても面白かった、という反応を示してくれました。それは、絵画でも音楽でも同じです。どんなものにも、その背後には歴史や文化といった多層的な世界が広がっているのです。
絵画であれば、表面に描かれたものだけでなく、画家の「意図したもの」が必ずあります。『シンデレラ』で言えば、もともとの物語は、古代から中世――生き延びるための労働に明け暮れていた時代――の民衆の夢だったでしょう。それが宮廷人ペローの手により、ある意味では歪められたとも言えるし、ある意味で小説としてはとても面白いものになった。それを判断するのは読者自身です。読書を深められるようになれば、その分だけ敏感に反応ができ、感性が豊かになっていくのです。
「気づき」が自立した思考をはぐくむ
そうした読み方は、小学生や中学生はもちろん、大人でもなかなか気づけないかもしれません。私が自分の著書を通して伝えたいのは、まさにこの「気づき」にあります。
絵画でも読書でも、「そうか、こういう見方があったんだ」と気づいたら、あとは各人が自分の選び方をしていけばよいのです。それが結局は、自立した思考を育むことにつながります。
何であれ、表面に見えていることだけで判断するのではなく、その背後に隠されたものはないだろうか、とつねに疑ってみることが大切です。現代の日本では、インターネットやスマホ、SNSなどに時間を取られ、視覚文化ばかりが肥大して活字を読む力が弱まり、ひいては想像力が減退してきたと言われます。そんな時代だからこそ読書が必要なのだと私は思います。
『シンデレラ』も、ディズニーアニメから一度離れ、自分だけのシンデレラ世界を構築してはいかがでしょうか。若い中学生や高校生が、読書の楽しさを知ってもらえたならば、それ以上の喜びはありません。
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