中後悠平「戦力外」から米国で甦った男の決断 3Aに昇格、日本プロ野球への復帰はあるのか
中後悠平は渡米2年目のシーズンを終えた。
米国内でも最も高温多湿地域の南東部を拠点とする「サザン・リーグ」に属し、12時間以上ものバス移動が当たり前とされ、わずか4カ月間で140試合を戦う2Aでの成績は、48試合で65イニングを投げ17失点、防御率2.35。9月には3Aに緊急昇格し優勝争いにも加わった。それでも、当初からメジャー40人枠で契約していない中後は、メジャーで地区優勝争いを繰り広げるダイヤモンドバックスの一員としてお呼びがかかることはなかった。
今回、この年の瀬に中後に会って、どうしても聞いておきたいことがあった。
それは来シーズン、身の振り方をどうするのか、ということ。
帰国後の10月。中後と食事した際、横浜の中華料理屋で餃子を頬張りながら、彼は偽らざる心中を吐露してくれていた。スポーツ新聞で、日本プロ野球界の複数球団が興味を示し、獲得の可能性を示唆する記事が掲載されている頃のことだった。
「正直、どうしたらいいか、現時点ではわからないです。戦力外になったあの頃と比べたら、そりゃ自信もついたし結果も残していると思う。気持ちは正直半々です。でも家族のこともあるし、夢を追い続けるだけでは生きて行けへん…どう思います?」
どうせここまで来たのなら、徹底的にやってみたらどうか。今なら確かに日本球界にも戻れるだろう。だがメジャーでも貴重な左の変則セットアッパーは、もし昇格できたなら、日本では考えられない高評価を受けることができる…。脳裏にそのフレーズが浮かんだが、同時に彼が置かれている状況を考えると無責任な言葉を吐くべきではない、そう逡巡してしまった。
「…オッケイ! とにかく悔いのない、答えを出します!」
あれから2カ月後の年の瀬。心境がどう変化したのか聞いてみたかった。
「実際に(日本国内の)5球団が興味あるって言ってくれました。ありがたいことに、シーズン途中でもマイナーまで足を運んで、僕のピッチングを見に来てくれた球団もあったそうです。それで、本格的に動いてくれたのは3球団。なかには球団の幹部クラスと直接お話しさせていただいたチームもあったんですよ」
妻・光も素直にこの状況を喜んでくれたと言う。
「2年前だったらありえないことだよね。クビになった人が、再び日本球界から声をかけてもらえるのは、この2年間向こうで頑張ってきたからだよ。それは凄いことだよ」
ただ、獲得を希望した5球団は、あくまでもダイヤモンドバックスとの契約を解除してからのテスト入団が条件だった。
移籍金というネック
ここに契約社会の複雑さがある。
日本プロ野球界のチームが中後を獲得するためには、ダイヤモンドバックスが手放さない限り移籍金が必要となるからだ。獲得を希望する球団からすれば、自由契約となった立場の中後と交渉して獲得をしたい。だからフリーの立場になってからの獲得検討を望んだ。
一方、中後からすれば、フリーの立場になって獲得検討をしてもらったところで、実際に日本球界に復帰できる保証は何ひとつない。土壇場でひっくり返って最終的にNOと言われたら、メジャーへの道も日本球界復帰の道も、閉ざされてしまうのだ。
「移籍金の問題が出るってことは、まだ僕がそれくらいの評価だということでしょう。ホンマに日本に帰りたいと思ってることはウソじゃないです。でも、僕もこの2年で積み上げた結果もあると思うんで」
果たして来季、中後は…。
「決めました。もう1年だけ、アメリカでやります。向こうは来シーズンで終わり、区切り良く3年で終わりにします。メジャーに上がれば別ですけど、僕も1人じゃないんで、来年が本当のラストイヤーです」
2カ月前とは打って変わり、こう力強く宣言してくれた中後。
「もちろんメジャーで自分が投げている姿を想像しますし、アメリカに行ったからにはやっぱテッペン目指そうと思いますし。その中でも、日本には帰りたいっていう気持ちを持ちながら、しっかり来シーズンをやっていこうという気持ちです。両方持っていますよ、ちゃんと」
メジャーでの契約条件、置かれたチームの状況、来季以降の日本球界の編成の事情、そして大切な家族のこと…。「野球でゼロに抑える」ことを掲げ、全てを飲み込んで三たび海を渡ることを決めた中後悠平。その運命や、いかに。
(敬称略、文:津川晋一/ディレクター・スポーツジャーナリスト)
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