巨大ターミナル「新宿」は50年でこう変わった 超満員「酷電」の時代には騒乱もあった
ラッシュ時の新宿駅は今も混雑が激しいが、筆者が取材、体験した記憶では、昭和40~50年代の山手線と中央線の朝夕の混雑ぶりは、それはもうすさまじいものだった。駅員だけでは間に合わず、学生アルバイトによる詰め込みの「尻押し部隊」で満員電車に対応、それでも乗り切れない乗客に対しては「引きずり出し」人員まで登場した。
その頃の通勤電車、いわゆる「国電」にはエアコンなどなく、夏場には窓を全開にして、天井からは扇風機が熱風を送り続けていた。このような過酷な通勤電車は、誰言うとなく国電をもじって「酷電」と呼ばれるようになった。酷電に揺られた我慢のサラリーマン諸氏が日本の高度経済成長を支え発展させてきた、と見るのは同時代を生きた同世代の筆者の感傷であろうか。
若者たちが形作った街
新宿といえば駅周辺の歓楽街が世界的に知られているが、特に昭和40年代は若者たちが中心となって新宿の街を形成したように思える。筆者が上京したのはいまからちょうど50年前の1968(昭和43)年。まず住んだのが中野坂上で、何かあると丸ノ内線で当時ひと駅(現在は西新宿駅がある)だった新宿に出るのが日常だった。当時はベトナム戦争の激化などで世相が不安定な時代であり、退廃的なムードが高まっていた。
そしてついには新宿駅を舞台とした反米デモなどが起こった。1968(昭和43)年10月21日の国際反戦デーには新左翼による暴動事件が勃発、暴徒と化した学生たちは駅構内に乱入、機動隊に線路の石(バラスト)で投石を繰り返し、電車や駅の施設を破壊し放火した。俗に言う「新宿騒乱」である。この事件以後、駅構内の線路はバラストの石をバラけないように固定して投石を防いだという。
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