天才音楽少年が風俗業界で働き続ける事情 コンクール優勝者が「デリヘルドライバー」に
正直、まったく信じてはいなかった。しかし働きづめで身も心も疲れ切っていた。ここはひとつ休みを取るつもりで行ってみよう、温泉につかってリフレッシュして戻ればいいじゃないか。そう考えて出かけた。
宿を取ってさあ寝ようかと布団に入ったときだった。携帯が鳴った。店で働く後輩からだった。「明日の夜、(女の子の)面接のアポが入りました」という。そのときは特に気にも留めなかった。「わかった。夜までには戻るから」と伝えて眠った。ところが、そこから見事に潮目が変わったのだ。次々と新人嬢が面接に訪れるようになった。
美人ばかりではなかったが、どの娘も明るくて愛嬌があり甘え上手。デリヘル嬢にはぴったりだった。そこで風見は「──待てよ」と気づく。彼女たちが訪れたのは、まさに「当日、4日目、7日目、10日目、13日目じゃないか!」少し恐ろしくなった。
潮目が変わって大人気店に
嬢たちにはどんどんリピーター(指名顧客)がつく。そうなってくると、立川というデリヘル未開の地であることが逆に効いた。どんな町にも、風俗を求める男はいるのだ。まさに入れ食い状態で評判が評判を呼び、気がつくと風見のデリヘルはドライバー11人、内勤スタッフ6人、常勤デリヘル嬢50人以上という、大人気店になっていた。
ところがそんな風見の店は、やはり気学の方向によって転落していく。2005年、風営法が大幅に改正される。いよいよ派遣型ファッションヘルス(デリヘル)に対する規制が厳しくなったのだ。受付所は店舗とみなされ、住所などの届出が必要となる。それまでデリヘルは受付所、つまり事務所をどこに開こうと自由だった。
何しろ実際に嬢が派遣されて営業活動を行うのは客の自宅でありホテルなのだ。ところが事務所が店舗と見なされることになれば、当然、貸し主の許可が必要になる。マンションを借りて、そこで勝手に飲食店を経営するのがダメなのと同じ理屈である。
風見の店もマンションの一室に事務所を構えていた。大家に相談するとやはりいい顔はしない。何とかお願いしますよと頼み込むと、「地階にも部屋があり、そこなら目立たないので許可しましょう」ということなった。
同じ建物で上から下へ下がるだけなので、気学の方位としても同じだからと引っ越した。しかしそこを境に売上げは下降の一途を辿ることになる。2年間が経ち「これはおかしいぞ」と久しぶりに駒込の先生を訪ねてみると、「建物の上下だけでも方位は大いに変わり、運勢も激変するのだ」と教えられた。
それからは気学上も経営的にも改善を試みたが、店の状態は上向くことはなかった。最終的には、店を畳むことを余儀なくされる。ときは2008年10月。アメリカで証券会社リーマンブラザーズが破綻して間もなくのことだった。リーマンショックである。風見は、単に個人的な運気の下降ではなく、世界中を支配していた「気」が、あの時期大きく変わったのだと考えている。
しばらくは文字通り「気」が抜けてしまい、自宅でぼんやりと過ごしたが、イメクラ時代からの知り合いから「新宿でデリヘルを始めたんだけど、手伝ってくれないか」と乞われる。
こうして風見隼人は、デリヘルドライバーになった。陽気な彼は、「かつてバイオリン日本一になった天才少年が、それが今やしがないデリヘルドライバーですよ。頂点から底辺へ堕ちた。こんな男、ボクしかいないでしょう、アッハッハ」と豪快に笑う。
けれど風見はやはり、現在の仕事で資金を作り、また風俗店を経営したいという夢を持っている。なぜなら「自分は風俗嬢と太い絆で繋がってるからだ」と語る。「妻もかつて風俗嬢だった。彼女には本当に助けられたし、今も支えてもらってます。バイオリンは挫折したし、ホストも中途半端で終わった。だから立川時代も今も、僕は風俗嬢に食わせてもらって、生かしてもらってるんです」と。
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