41歳経営者は全財産を失っても立ち直った

IMJ竹内CEOの痛快キャリアストーリー

――その後は?

そのような経緯を経て、2003年の1月、南壮一郎とともに「ディールウェーブ」という会社を設立しました。特段なにをするというのは決めず、企業の価値評価をするソフトウエアの販売などを展開していました。そのほかにも、K-1のお手伝いをしたり、子どもの英語教室をやったり。アイデアマンである南の発案で、いろいろな事業に着手しました。CCCの増田宗昭さん、楽天の三木谷浩史さんなどのお手伝いもしています。

2004年の秋ごろ、三木谷さんの誘いを受け、南は楽天球団へ。僕はというと、増田さんの強い誘いを受けてペットショップをやることになります。熱心に口説かれたのがとても印象的でした。29歳のことです。

ただ、雇われとしてやるのではダメだと考えていましたので、全財産を投入し、CCCと僕個人の合弁でやることにしました。相手は当時、東証1部上場企業ですので、有価証券報告書の記載方法を含め、かなり物議をかもしたようです。

会社追放、数千万円を失った

試行錯誤しつつ、3年ほどペットショップ事業で奮闘しました。世田谷に1号店、東京ミッドタウンに2号店を設立しましたが、東京ミッドタウンのお店は今でもあります。ただ、僕自身は事実上、追放されるような形で、不本意な辞め方をしました。2008年の春のことでした。

持ち出しも多く、給料もほとんどもらっていなかったので、数千万円ほど失いました。それこそ本当にスッカラカンになってしまい……。住民税が払えず、車を売り、親に借金を申し込んだほどです。当時は結婚したばかりでした。

おカネがまったくなくなり、完膚なきまでに自信を打ち砕かれたことで、好きだった音楽にも興味がなくなりました。さらには、音も匂いも色もわからない、半分鬱状態になってしまったのです。追放されたのが桜の季節だったので、その後数年は桜を見ることができませんでした。

そのとき、リーマン・ブラザーズ時代の上司が声をかけてくれたのです。それで生活のためということもあり、2008年の6月にリーマン・ブラザーズに復帰することになります。しかし、9月に会社が倒産。いわゆる「リーマンショック」です。2008年は本当にどん底でした。

――当時、リーマン・ブラザーズ社内の状況はいかがでしたか。

倒産する少し前から、社内では不穏な空気が流れていました。発表があった月曜日(敬老の日)の夕方、オフィスに行ったときのことはいまだに覚えています。9月の3連休の最終日でした。情報が錯綜し、社内は混乱していました。

印象に残っているのは、後輩の女性社員が生まれたばかりの赤ちゃんを会社に連れてきていて。片やボードルームで子どもをあやしている人がいる側で、「民事再生手続きの申し立てをする」と聞かされたときのシュールな光景は、今でも忘れられません。

リーマン・ブラザーズが倒産したあと、日本法人は野村證券が買うことになりました。条件もとても良く、いろいろな思いを抱えたままではありましたが、野村證券で働きました。

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