プロ野球選手を陰で支えるバット職人の真実 12球団130人の製作を手がけた男が語る

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――すべての球団の“もうひとりの選手”でもある。

熊谷氏:球場でバットを振るのはあくまで選手で、自分の勝負の場はこの工場で、選手の要望通りのバットで応えられるかがすべてです。この工場の中で、僭越ながら「一緒に戦っている」という気持ちで臨ませてもらっています。

すべての球団の選手のバットを任せてもらっているので、テレビなどで試合を観るときは、チームの勝敗というよりも、どうしても道具中心の目線になってしまっています。球団に関係なく、回(イニング)ごとに応援する選手は変わりますし、また、投手のグローブが弊社の製品で、なおかつ打者も自社製品、自分が作ったバットという場合には、やはり後者に肩入れしてしまいます(笑)。

私が所属しているスポーツ用品メーカーZETTの福井県武生(たけふ)工場では、バットのほか、ユニフォーム製造などがあり、皆それぞれの担当の仕事を愛しています。もともと私も野球が大好きで、スポーツの世界に携われることから、この会社に入りました。その中で、私が、とくに “バット職人”として生きることを決意したのは、この工場でのある衝撃的な出会いからでした。

「ホームランなし、甲子園出場経験なし」

熊谷氏:幼い頃から野球は大好きでした。私の実家は長野県塩尻なのですが、そこで建設会社を営む家の次男坊として生まれました。父は、とにかく私を野球選手にしたかったらしく、野球の道具以外は買い与えられず、ゲーム機も漫画本にも無縁で、ボールとバットだけが唯一の遊び道具でした。

リトルリーグのときから野球中心の生活で、高校時代まではそれ以外に記憶がないほど野球三昧の生活だったんです。当然、将来の夢は野球選手で、高校も県内の野球の強豪校に進みました。部員は全体で100人を超えていましたので、わずか十数人のベンチの座を争うため、競争も練習も厳しく「地獄の三年間」というにふさわしいものでした。

その中で私も、なんとか周りの選手に追いつこうと毎日必死に練習していました。身体も大きい方ではなく、人一倍頑張っていたつもりでしたが、ベンチに入るので精一杯。目立った成績も残せず、甲子園も出場できずで、そのまま高校三年間は終了。いよいよ私も就職を控え、「野球人生もここまでかな」と思っていたんです。

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