ところが、この苦心のネーミングも実らず、新商品はまったく売れませんでした。「マロニー」の知名度がないうえに、「どんな商品かわからない」「パッケージのデザインが食料品らしくない」という意見が圧倒的。出荷から1カ月後には全品が返品されてきた、といいます。その後2年間、ほとんど売れない時代が続きました。「子供ながらにあんなに厳しい父の顔を見たことがありませんでした」と幸枝社長。
3年目に訪れた転機とは?
そんな苦しみにあった3年目に転機が訪れます。調理師学校の先生が気に入ってくれて、料理学校の教材に採用されます。そこから徐々に知名度が上がって行きました。1978年ごろには、ダイエーから生マロニーを扱いたい、との打診があり、納入が決まりました。マロニーが、小売店からスーパーに販売の中心が移るきっかけとなり、販路も順調に拡大していきました。
1991年には義宗氏が会長になり、幸枝氏が社長に就任しました。そして1994年、関東進出を機に、念願のテレビ、ラジオCMの大量オンエアが始まります。
関東に進出するにはインパクトが必要、ということで、大女優なのにユニークなキャラクターで人気のある中村玉緒さんを起用しました。その時のことを、幸枝社長が回想されます。
「もともとCMの原稿には“お鍋にマロニー”というフレーズと“マロニーさん”という呼び名が書いてあったんです。実は私、玉緒さんと年齢も近いことから初対面なのに気が合い、収録前に大いに盛り上がりました。そして楽屋で楽しく話した後、本番へ向かう際に、玉緒さんが“マロニーちゃん♪”と歌いながらスタンバイされたんです。私も周りもそれを聞いて、これだ!と思ったんです」
まさに、幸枝社長と玉緒さんのコミュニケーションが生んだ偶然の産物でした。幸枝社長は、「玉緒さんは今でも、作詞作曲は私だ、とおっしゃっています」と笑われます。玉緒さんがアドリブで歌ったテレビCMは大評判になり、一躍、「マロニー」を全国区商品に押し上げました。いずれCMで売り出したい、と腐心したネーミングが、ここで花開いたのです。
なお、玉緒さんは1999年に「最多CM出演女優」に輝きますが、夫の故・勝新太郎さんは「(数あるCMの中でも)マロニーのCMには玉緒のいちばんいい表情が写っている」と言ってくれていたそうです。
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