ネトウヨと保守、右翼は何がどう違うのか 西部邁、中島岳志が師弟対談

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中島:デモクラシーを多数派の専制にしてはならないというのが政治学の基本です。フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルが名著『アメリカのデモクラシー』で書いたのは、多数者の専制を引き起こす大衆社会の熱狂を避けよ──ということ。多数者の専制下では、少数者は抑圧され、最終的には個性や自由が迫害された均質社会となり、大衆社会にのみこまれる。それは避けるべきだと説いた。そして、デモクラシーが健全に機能する前提として、学校、協会などの中間共同体を挙げている。この中間領域は、メディアの出現で崩壊するとも書いています。為政者と個人がメディアを通じて一対一となると、為政者は大衆の欲望の代理人となり、ポピュリズムのような政治がはびこる。メディアと大衆、それを利用しようとする政治家が三位一体となり、結局、アメリカのデモクラシーは崩壊すると指摘しています。

西部:イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは後年、トクヴィルを読んで感銘を受け、書評論文を書いた。現代イギリスの恐ろしさは毎朝、同じ時間帯に、同じ紅茶を飲みながら、同じ新聞を読んでいる人が3千人もいることだ、と。人間はそれぞれ個性を持って態度を決めるべきなのに、3千人も同じものを読む時代を恐ろしいと言う。今の日本のメディア状況なんて、どれだけ恐ろしいか(笑)。

──いわゆる「ネトウヨ」は、保守思想にシンパシーを感じている人も多い。保守からはどう見られているのでしょうか。

中島:彼らは保守思想にすらコミットしていないと思います。左翼が言っていることが気に入らないという「反左翼」という意識だけではないか。

西部:でも、この「反左翼」の歴史は長い。何十年も前から有名な右派論客にも、「反左翼」だけの人間はたくさんいる。それが次第に数を増やして、ネットにあふれている。ただ、彼らの言葉が過激になったことの背景はある。戦後70年間、言論界のみならず学界、経済界、政界も左翼思想になじむ言動をしないとパージされてきた。それに反抗するのだから、極端な人間が一定数増えるのは必然です。

右翼も左翼も少数自負

中島:奇妙な「ねじれ」もあった。朝日新聞をはじめ、左派は「自分たちはマジョリティーじゃない」という意識がある。政権はずっと自民党で日本は保守の地盤が強く、自分たちはそれに抵抗している少数派だという自意識です。一方で、右派は自分たちの意見がメディアや教育、アカデミズムから排除されている、マイノリティーであり、誰もそれを代弁してくれないという意識があった。双方が「アンチの論理」でやりあったからぐちゃぐちゃになったんです。

西部:ネトウヨにはある種の反知性主義としか言いようのない、下品な言葉遣い、他人に対する誹謗中傷、罵詈雑言(ばりぞうごん)があるらしい。トランプ米大統領をはじめ、世界の指導者でもゴロツキがたくさん出てきた。でも、これは反社会的勢力のレトリックと同じなんです。たとえば、トランプ大統領は昨日と今日で言っていることが180度違う。それは、危機的状況を回避するときに反社会的勢力が得意とする、「俺たちは、場面場面でものを言っとるんじゃ」という態度と同じ。そういう人間は矛盾を指摘されてもまったく動じない。昔の保守政治家には、相矛盾した二つをギリギリつなげる微妙で繊細な語彙(ごい)、ユーモアがあった。今は、それもなくなり、ただの乱暴な言葉だけだ。

一方で、左翼の論客の言葉だってネトウヨと同等に乱雑で、内容としては反知性的なオピニオン、つまり「根拠のない臆説」が増えている。右翼だけが反知性主義だというのは、朝日の偏見です(笑)。

中島:朝日を最も攻撃しているのも、また左翼です。ちょっとでも理想と違うと糾弾する。どっちもどっちです。

西部:われわれのような真の保守たらんとする者たちから見れば、勝手にやってくれということですよ(笑)。

(構成:編集部・作田裕史)

AERA 2017年5月1-8日合併号

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