24歳で会社を辞め舞台監督に転じた男の半生 小栗哲家「新しい挑戦は失敗しても勉強だ」

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──それで名古屋から東京に。迷いはありませんでしたか?

まったくなかったですね。東京には修学旅行と学園紛争のときに数回行っただけでしたが、「東京で働くこと」に興味がありましたから。それにそのとき、現在の妻とすでに付き合っていたんですが、彼女は東京に住んでいたんです。ですから東京に行けることは、公私どちらの面においても、喜ばしいことでした。

ただ、就職する前は、学園紛争をやっていた仲間と「日本は駄目だ。お金を貯めてアメリカに行こう」なんて話をしていたのですが、東京に来て、オペラの魅力にはまってしまい、結果的に約束を反故にしてしまいました。

──そうして上京したのが24歳。当初から仕事は順調だったのですか?

しばらくはお金がなくて大変でした。当時は「舞台をやる」と言えば、「好きだからやっているんだろう」という理由で、お金をほとんどもらえない時代でしたから。給料は1万円。家を借りるお金もありませんでした。

仕方なく、しばらくの間は、西荻窪に学生時代の友人のアパートがあったので、そこに転がり込んでいました。それでも給料だけでは食っていけず、測量のアルバイトもよくしていました。

そんな生活が続いていた27歳の頃、突然「オペラの舞台監督をやってくれないか?」とオペラ演出家の栗山昌良さんから声が掛かったんです。

キャリア的にも年齢的にも若造だった私を、なぜ当時から大御所だった栗山先生が指名したのかは、いまもわかりません。ただ、当時は有り余るほどのエネルギーを全身から発していましたから、そこに何か可能性を感じてくれたのかもしれません。

──舞台監督として臨んだ初公演、無事に終えることはできましたか?

公演自体は無事に終わりました。ただ、私の仕事の出来がよかったのかどうかは、自分ではまったくわかりません。とにかく一生懸命やることに必死でしたから。

怖いものなんて、何もなかった

──それが小栗さんにとって転機になった?

たしかにそれから、栗山先生のオペラ公演には舞台監督として呼ばれようになりましたし、大きな節目ではあったと思います。

しかし私のなかで大きな転機となったのは、29歳のとき、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスの引っ越し公演(海外で上演されたオペラを、セットごと日本に運んで行う公演)で日本側の舞台監督を務めたことです。

これが私にとって、初めて世界に触れた仕事でした。当時は、日本のオペラと海外のオペラでは、スケールもレベルもまるで違いましたから、普通なら尻込みしてもおかしくなかったのでしょうが、その頃の私には怖いものなんて何もありませんでした。だから話がきた瞬間、「やります」と即答していました。

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