本能寺の変、「本当の裏切り者」は誰なのか

教科書が教えない「明智光秀」以外の真犯人

今回も、まずはよく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

Q1.「本能寺の変」とは何ですか?

1582年6月に京都の本能寺で起きた、織田信長の暗殺事件です。犯人は家臣の明智光秀で、この謀反をまったく予期していなかった信長は、護衛のほとんどいない中で襲撃され、49年の生涯を閉じました。

Q2. 明智光秀は、どんな人物ですか?

織田信長の家臣です。彼の前半生についてはよくわかっていませんが、越前(現在の福井県)の朝倉義景や将軍足利義昭に仕え、信長が上洛した後、才能を見いだされて信長に仕えたといわれています。

実際、明智光秀は、軍事はもちろん、行政・外交の手腕にも長けており、さらには連歌や茶など文化にも精通する人物でした。そのため、信長にとって最も信頼のおける部下のひとりだったのです。

本能寺は「城」に近い構造だった!

Q3. 本能寺は「どんな寺」ですか?

1415年から続く、法華宗本門流の大本山です。当時の本能寺は、現在の二条城の南西、いまの本能寺からは西に1キロメートルあまりの場所にあり、「東西140メートル、南北270メートル」の広大な敷地を有していました。

周囲を城郭なみの堀や築地塀、土塁で囲まれるなど、寺というよりむしろ「城」に近い構造だったことが、近年の発掘調査で明らかになっています。

Q4. 襲撃はどの時間に行われたのですか?

襲撃開始の詳しい時刻は、さまざまな証言からはっきりしていませんが、ドラマ等にみる真夜中ではなく「早朝」の時間帯です。当日は、異常気象と梅雨の時期が重なり、京都は悪天候が続いていたようです。

Q5.「本能寺の変」はどんな戦いだったのですか?

本格的な城攻めに近い焼き討ち作戦だったことが、発掘調査で見つかった焼失した瓦や壁土から推測されます。当時の記録からも、攻め落とすまでに数時間を要した戦いだったことが知られています。

本能寺で織田信長を護衛していたのは、150~160人ほど。一方の明智光秀は、完全武装した自らの軍勢1万3000人を率いていました。これだけの兵力差にもかかわらず、信長勢が何時間も抵抗できたのは、前述のとおり「本能寺が城としての機能も兼ね備えていたから」でしょう。

ここでもし、信長が1日でも持ちこたえていれば、四国攻めのために大坂に進軍していた信長の三男信孝の援軍によって、信長は助かっていたでしょう。

Q6. なぜそこまでして、明智光秀は謀反を起こしたのですか?

はっきりとした動機は不明で、諸説ありますが決定的な結論は出ていません。そのため、事件は「明智光秀の単独犯」ではなく、彼を扇動していた「陰の黒幕」がいた可能性も指摘されています。

その背景には、明智光秀の行動があまりにも手際がよく、「用意周到に準備されていたのでは」と思われる節が散見されることがあります。

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