「若者の貧困」を招く、精神疾患増加の実態 熟年世代の偏った経験からは理解できない
当然であるが、多くの若者たちは無理を強いられながらも仕事を持ち、日々働いている。そのなかで、たとえば失業したり、長期間仕事がない場合はどうだろうか。社会的なマイノリティ(少数派)として居場所を喪失した感覚を持ってしまうなど、若者の心細さは想像を絶するものがあるだろう。または不運にも病気にかかり、職場を離れなければならない若者の気持ちを想像すると、その挫折感や不安感は計り知れない。
当然、若者は健康であるという前提で社会システムも職場の意識も形成されているため、支援体制などが整備されていないことも目の当たりにする。そもそも、若者が有給休暇を取って、病院で受診することすら満足にさせられていない企業が多い。これについては、いくつも報告がなされているところだ。
目に見えにくい疾患が急速に増えている一方で、若者たちの心身の健康に配慮しながら、健康診断を促すことは少ない。40代ともなれば、人間ドックなど、内科の健康診断の機会は増えてくるが、若者たちの心がむしばまれる状況に対しては、企業の一部で産業カウンセラーがメンタルケアを多少行う程度で、対策はまだまだ遅れている。
わたしたちも当然ながら、元気な若者像を前提としながら、考えてしまうと落とし穴にはまる。彼らはもう、健康で元気ではないかもしれない。
時代錯誤的な神話に絡めとられて
また、「若者はみんないつの時代も大変なものだ」と言い出す人も、特に熟年世代に多い。こうした時代錯誤的神話を、わたしは「時代比較説」と呼んでいる。
戦後しばらくは、食事もままならないほど困窮しており、何もない状況でなんとか工夫して努力してはい上がってきた。裕福な時代に生きている今の若者は、当時に比べれば大変ではないだろう─―とうれしそうに語る典型的な高齢者に、わたしもしばしば出会う。
まず何が大変で何が大変でないかは人それぞれであるし、それぞれの価値観の違いという問題を含んでいる。その人の状況になってみなければ、大変か否か、つらいか否かは理解できないだろう。若いうちに努力をした高齢者は、まったく同じように若者たちに努力を求める傾向にある。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という単純な論理がまだまだまかり通っている。
唐突かもしれないが、ここで「貧困」と「貧乏」の違いを説明したい。昔は貧乏であり、物質的に恵まれない時代があったかもしれない。しかし、周囲の人々も同じような境遇であり、生活に困窮していたとしても、それを補い合う人間関係や連帯感が醸成されていたことも事実である。
すなわち、物質的に貧しくても、人間関係は豊かであり、自助や共助によって、今よりも多くの人々が救済されていたとも言える。ひるがえって、現在の若者はどうだろうか。家族や親族、近所のおじさん・おばさんがお困りごとに対応してくれるだろうか。以前ほど安い下宿先はあるだろうか。職場でも正社員か非正規社員かで分断され、連帯できる仲間意識が形成されにくいことに、考えは及んでいるだろうか─―。
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