村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由 そもそも本当にノーベル賞候補なのか?

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ところで春樹の小説には、クラシックからポピュラーまで音楽がたくさん登場するが、その中でもボブ・ディランは突出している。というより特権的な存在および音楽として扱われている。かつて春樹はこんなことを書いていた。

60年代は「ポップ・ミュージックが大衆的な意識の軸の最先端に踊り出た」「ポップ・ミュージックの時代」「ロック・ルネサンスの時代」であり、ボブ・ディランービートルズードアーズという連鎖は「一九六〇年代にしか起こりえなかったことであるかもしれない」と(「用意された犠牲者の伝説――ジム・モリソン/ザ・ドアーズ」『海』1982年7月号)。ここにビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを加えると、ポピュラーミュージックにおける村上春樹のアイドルが揃う。

ディランについては「文体としてはケラワックであり、音色としてウディー・ガスリーであり、体ののめりかたはリトル・リチャードに近く、精神的にはジュウイッシュである。全体としてはひどく重く、知的である。ユーモアさえもが重く知的である」と書いている。「根本的な不信感と、不信感を梃子にした極めて微妙な意識の分解作業」に彼のオリジナリティはあるというのが春樹の評価だ。

この連鎖で実現されたものを「60年代的価値観」と呼ぶとすれば、村上春樹の初期3部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は、「僕」が「60年代的価値観」を援用して70年代という時代をなんとか生き延び、そして「60年代的価値観」が死ぬ物語と読むことができる。

80年代は春樹にとって「60年代的価値観」が死んだ後の「高度資本主義」の時代である。この特別な、ディラン、ビートルズ、ドアーズの3組をまとめて登場させた短篇が春樹にはあって、そのタイトルは「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」と付けられている。

実のところ村上春樹は、文学より音楽を、創作の動機としてより強く持っているらしい。それは本人も述べている。

ディラン受賞について、村上春樹に聞いてほしい

一方、ボブ・ディランは、ティーンエイジャーの頃はロックンロールに傾倒していたが、ミネソタ大学進学のためにビートニクなどが集っていたミネアポリスに移り、そこでフォークに触れて転ずる。この転向は、アメリカのフォークシンガー、ウディ・ガスリーに衝撃を受けることで決定的なものとなる。

ウディ・ガスリーは大恐慌時代に悲惨な境遇の中、民衆の苦難を歌った。ここで言われるフォークソングとは、字義通り「民謡」である。村上春樹は『意味がなければスイングはない』でガスリーのことを「国民詩人」と形容している。

今回のノーベル賞受賞についてディランの歌を「プロテストソング」とする報道が多かったが、本人はデビュー後まもなくその路線は捨てている。というより端からそんなつもりはなかったかも知れず、抵抗の象徴に祭り上げられることにむしろ激しい拒絶と嫌悪を示した。

ディランは常にファンの予想と期待を裏切るような変遷を重ねてきた。民謡であるフォークソングというルーツを引き受ける覚悟から始まり、ビートニク詩人と親交を結び、エレキギターに持ち替えロックを変革し、キリスト教を飲み込み、ゴスペルを経由し、ヒップホップにまで触手を伸ばし……。

その総体は「アメリカの詩と音楽」としか呼びようのないものであり、「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」という授賞理由はそれを踏まえて理解しなければならない。

これは真面目に言うのだけれど、メディアは、村上春樹のところへ行ってボブ・ディランの受賞についてどう思うかぜひとも聞くべきである。最もよく彼を理解している日本人の一人なのだから。

栗原 裕一郎 評論家

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くりはら ゆういちろう / Yuichiro Kurihara

1965年神奈川県生まれ。東京大学理科1類除籍後、評論家として活動。文芸、音楽、経済など幅広いフィールドを対象にする。受賞作に「〈盗作〉の文学史」(第62回日本推理作家協会賞、新曜社)。他の著書には「バンド臨終図巻 ビートルズからSMAPまで(文春文庫)」(共著、文藝春秋)、「本当の経済の話をしよう」(共著、筑摩書房)、「石原慎太郎を読んでみた」(共著、原書房)、「村上春樹を音楽で読み解く」(共著、日本文芸社)などがある。

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