硫黄島で死んだ「日本人金メダリスト」の悲劇 米兵にも愛された「バロン西」を知ってますか
Q6.「バロン西」が派遣された「硫黄島の戦い」とは?
太平洋戦争末期の1945年2月19日から3月26日に、東京都小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍によって行われた戦いです。
硫黄島を守る「日本軍2万1000」に対し、「アメリカ軍6万1000」と兵力差は圧倒的でした。しかし、日本軍司令官の栗林忠道中将をはじめ、将兵は徹底した「持久戦」でアメリカ軍に対抗し、最後は玉砕しました。
知米派「栗林忠道中将」がとった作戦は?
Q7. なぜ硫黄島が戦場になったのですか?
硫黄島が、「マリアナ諸島と日本本土のちょうど中間」に位置していたからです。
アメリカはグアム、サイパンなどマリアナ諸島を占領したことで、航続距離が片道2800kmのB29爆撃機による日本本土ほぼ全域への直接爆撃が可能となりました。
ただ、B29を護衛できる長い航続距離を持つ戦闘機はなかった(P51護衛戦闘機でも航続距離は片道1300km)ため、硫黄島を占領して、「護衛戦闘機の基地およびB29の不時着場所」として活用できると考えたのです。
実際、硫黄島には終戦までに2200機以上のB29が不時着しました。
Q8. 日本軍はどのように迎え撃ったのですか?
最高司令官は「知米派」で知られる栗林忠道陸軍中将でした。栗林中将は戦前にアメリカ留学の経験もあり、アメリカの戦い方を熟知していました。
司令部をはじめ島内すべての施設を地下深くに構築し、さらにこれらをトンネルでつなぐ「地下要塞」化の難工事を行いました。そして「徹底した持久戦とゲリラ戦」に持ち込み、火力と物量に勝るアメリカ軍に対抗したのです。
最後の日本兵が投降したのは、1949年でした。
Q9. 硫黄島では「米軍の被害のほうが大きかった」のは本当ですか?
本当です。当初、アメリカの上陸部隊指揮官は「5日で片付ける」と豪語していましたが、実際の戦いは「1カ月以上」に及ぶ長期戦となりました。
上陸時のアメリカ軍負傷手術率は90%(ちなみに「史上最大の作戦」といわれるノルマンディー上陸作戦では5%)。最終的に硫黄島の日本軍は玉砕しますが、日本軍の戦死傷者約2万1000人に対し、アメリカ軍の戦死傷者は2万8686人と、日本軍の数字を上回りました。
Q10. 硫黄島の住民はどうなったのですか?
栗林中将は、1943年6月に硫黄島に着任すると、翌7月に軍属として現地徴用した一部を除き、全島民を内地へ疎開させました。そのため、多くの住人が戦いに巻き込まれることはありませんでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら