しかし、東京日光電鉄の勝訴からほどなくして、東武鉄道の日光線が開業。さらに昭和恐慌が発生するなど、免許の取得時とは状況が大きく変化していた。結局、東京日光電鉄は工事施行認可を申請することができず、1930年10月24日付で免許が失効。復活したはずの計画は再び幻に消えた。
ちなみに、東武鉄道は当初から日光への進出を計画していたわけではない。もともとは、機織業が盛んだった群馬・栃木両県の両毛地区と東京を結ぶ路線を計画し、明治期に現在の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を開業。同社が日光進出を考えるようになったのは、大正期に入ってからだ。
まず1912年8月、東武は現在の佐野線を運営していた佐野鉄道を買収する。これは佐野線を活用して日光に進出することを考えたためで、当初は葛生~鹿沼~日光間のルートで整備する構想だったが、1920年にはルートの最終案が佐野~三鴨~静和~栃木~日光間に決まった。
ところが翌1921年5月、東武は伊勢崎線の杉戸(現・東武動物公園)駅から分岐して日光を目指すルートの地方鉄道免許を申請した。
東武の日光ルートにも影響した?
東武が1998年9月に刊行した『東武鉄道百年史』によると、この変更は「(第一次世界大戦後の)好況による社会経済状況の変化に照らし、さらに検討を加えて、最良のものにする必要があった」ため。当時の国鉄ルート(上野~宇都宮~日光間)は4時間以上かかっていたことから「東京~日光間を短時間で、しかも日帰りできるルートを再検討し、従来の佐野線からの分岐案を廃して、新たに伊勢崎線杉戸駅からの分岐と決定した」という。
ただ、東武が日光への地方鉄道免許を申請したのは、東京日光電鉄の免許申請からわずか1カ月後のことで、タイミングが良すぎる。それに、浅草~東武日光間の距離は佐野線活用案が約150kmであるのに対し、杉戸分岐の現行ルートは135.5kmで、まるで東京日光電鉄の申請距離にあわせたかのようだ。東京日光電鉄の存在が、東武の計画変更に何らかの影響を与えたのではないかという疑問は拭えない。
仮に東武の佐野線活用ルートと東京日光電鉄の両方が実現した場合、距離の長い東武は競争上不利な立場になる。そこで東武は、東京日光電鉄とほぼ同じ距離になる現行ルートに急きょ変更し、競争力を強化しようと考えたのだろうか。
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