(第49回)6章 「ロスチャイルド」という課題 5

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ウィーンのロスチャイルド邸(取り壊し寸前・一九五四年)
 ロスチャイルド邸は無人のまま放置され、それは五〇年代に取り壊された。ロスチャイルドが育てたヴィトコヴィッツ製鉄所はチェコ共産党管理のもとにあり、法的に争うこともしなかった。ロスチャイルドの領地のおおかたはソ連軍の占領下にあって、ソヴィエト政府は「ドイツ人所有の財産」とみなして没収した。ナチス・ドイツの法律で強制的に接収されたものが、どうして「ドイツ人所有の財産」なのか、異議を申し立てても空しいことをロスチャイルドはよく知っていた。
 唯一ロスチャイルドが強く返還を求めたものがある。ナチスに没収された美術工芸品であって、それはチロルの岩塩抗に運びこまれていることが判明した。
 略奪財産の隠し場と、その返却をめぐっては数々の物語がある。絵画や彫刻、工芸品は所有権がはっきりしているとき、その持主に戻すのが原則であって、ロスチャイルドは専門家の手を通してくわしい目録を作成していた。
 所有権は確定したが、オーストリア政府は国外持出しを禁止した。長々とつづいたやりとりの末、ロスチャイルドは一部の作品の持ち出しと引き換えに、残りの多くをオーストリアに寄贈することで妥結した。おかげでウィーン美術史美術館やオーストリア工芸館はそのコレクションを大きくふやした。
 ルイはロング・アイランドにもどり、悠々自適の晩年を過ごした。一族のそれぞれを「小さな幸せ」にゆだねて、誰があとを継ぐことも求めなかった。ロスチャイルド的な見切りのつけ方をしたわけだ。
(次回更新予定 2008年6月1日)

池内紀(いけうち・おさむ)
1940年兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。1966~1996年、神戸大、都立大、東京大でドイツ語、ドイツ文学の教師。その後は文筆業。
主な著書に、『モーツァルトの息子』(知恵の森文庫・光文社)、『ゲーテさん こんばんは』(集英社、桑原武夫学芸賞)、『海山のあいだ』(角川文庫、講談社エッセイ賞)、『諷刺の文学』(白水社、亀井勝一郎賞)、『ぼくのドイツ文学講義』(岩波新書)、『異国を楽しむ』(中公新書)など。
主な訳書は、ゲーテ『ファウスト』(集英社、毎日出版文化賞)、『カフカ小説全集』(全六巻、白水社、日本翻訳文化賞)など。
最新刊『池内式文学館』(白水社)、『尾崎放哉句集』(岩波文庫)、『川を旅する』(ちくまプリマー新書)、『出ふるさと記』(新潮社)が好評発売中。
NHK FM第1 日曜日放送「日曜の喫茶室」準レギュラー出演
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