「子なし夫婦」に求められる"覚悟"とは何か 相手に迷惑を掛けず、すべて自分でやる
なかには有り難いことに、結婚相手を紹介してくれる人もいたが「仕事が忙しい」と断り、この歳までおひとりさまを満喫。年収も700万円を超え、自分の趣味にも没頭するようになった。幼いころからひとりでいることが好きだった私にとって、“一人旅”はご褒美。とくに金沢はお気に入りのスポットだった。
まだ当時は北陸新幹線が開通していなかったので、いまより混雑することもなくゆっくり街並みを楽しめた。基本は徒歩で移動することができるので、一泊二日がちょうどいい。小京都と言われるだけあって「ひがし茶屋」はただ散歩するだけでも魅力的だし、忍者寺と言われる「妙立寺」には面白い仕掛けがあり、30歳を越えた自分でもワクワクした。
昨年、惜しくも閉店してしまったが「小松弥助」にも足を運び、日本の頂点と言われるおすしを堪能。気さくなご主人と奥さんは、その後足を運んだときも暖かく迎えてくれて、いつもお土産に“おにぎり”を持って帰ったものだ。
はたから見れば寂しそうに映るかもしれないが、ひとりで好きなところに行ける自由が嬉しい。仕事も充実していて、いつまでもこの楽しさが続けばと思っていた。
33歳:厄年によって続く不幸の連鎖
これまで厄年というのはあまり信用していなかったが、このときは神にもすがる思いだった。自分を理解し、優しく見守ってくれた母が病に倒れたのである。60歳を迎えた母は年齢にしては元気に見えたが、それは私に心配させないようにとしていたもので、実際は体調があまり良くなかった。
29歳のときに実家を出て、中目黒でひとり暮らしを始めた。これまで母に頼りっきりだったこともあり、改めて親の偉大さを実感。子供を見せてあげられないけど、それ以上の親孝行をしようと一緒に旅行に行ったり、美味しいものを食べに行ったりと今まで以上に仲のいい関係だった。
ただここ最近は仕事が急激に忙しくなり、母とはメールで連絡をとり合うだけになっていたのである。
「元気?」と連絡すれば「変わらず元気よ」と返す母に安心し、きちんと様子を見に行けていなかった。そんなとき、父からの連絡が入り母が入院したことを聞かされたのである。
病状はあまりいいものではないらしく、検査してみないとわからないと言われた。いつまでも自分の母親は元気で居てくれると思っただけに、この状況はあまりにも辛かったのを覚えている。
さらに悲劇はこれだけでなかった。大きなプロジェクトのため毎晩終電まで作業をしていたが、それに不満をもった若い子が何も言わずに会社から消えてしまったのである。人数を埋めるために業務はさらに酷となり、もう若くない自分の体にむちを打って働いていた。
体だけではなく精神的にもボロボロだったある日、トイレで思いがけない声を耳にしてしまった。「雪乃ってちょっと“痛い”よね」「わかる!なんか自分だけ頑張ってますアピールがすごい(笑)」「行き遅れてるんだから、婚活頑張ればいいのに」同じ部署の女子社員が自分の悪口を平気で話していたのである。