(中国編・第三話)笑顔と握手
北京に戻った私たちはこの先、どう交渉を進めるのか、途方にくれていた。そのシンクタンクが実は本命の団体のひとつでもあったからだ。
だが、すぐに私たちは現実に戻された。心配した何人かの知人がホテルに駆けつけてくれたが、その一人の発言が浮き足立った私たちに冷水を浴びせたからである。
その知人は、以前、日本の金融機関で長らく働き、その後、中国政府で働いている。
「日本人は今の日中関係がかなり危険なことに気づいていない。冗談だと思うかも知れないが、このままいったら暴動が起きる。それを抑え切れるかだ。あなたの夢は諦めるべきではない」
中国に入ってから私が感じていた、違和感はこれなんだと思った。出会った民間団体とは笑顔と握手はあっても、そうした現実の話は一切出なかった。何かを遠慮している、それを私は距離感と感じたのである。
これは中国政府と直接交渉するしかない、私はそう覚悟を固めたのである。
その間、私たちが連絡を取り合っていたのが、私が日本のホテルで喧嘩し、今回の訪中に繋がった、張平氏だった。その彼から、思いがけない提案があった。
「チャイナディリーが、この日中対話の中国側の受け皿となる。その代わり、政府の人間に合わせるので、そこで貴方の考えを説明してくれないか」
その翌日、北京大飯店のロビーで会ったのは国務院新聞弁公室の幹部たちだった。
約一時間、私が語ったのは今思い出すと、日中関係ではなかった。日本の市民社会でのNPOの役割、そして言論の重要性である。
その間、黙って聞いていた彼らが、私の話が終わるとこう握手を求めてきた。
「こんな感動したことは無い。是非、バックアップしたい」
その握手が社交辞令ではないことはその目を見てすぐ分かった。
日本の小さなNPOと中国の巨大メディアの提携は事実上その日、決まった。北京大学国際関係学院がさらにこの提携に加わった。
日本に戻った私は、その夏に日中対話の舞台を立ち上げるため、チャイナディリーとの業務提携の準備に取りかかった。
2005年1月13日、記者会見は張平氏も出席して日本で行われた。
だが、対話の準備をゆっくり進めるわけにはいかなかった。
そのわずか3ヵ月後、恐れていたことが起こったからである。中国での反日デモが一部暴動化し、北京や上海などに広がった。
私はもう一度、北京に向かわなくてはならなくなったのである。
日本のNPOと中国の巨大メディアが提携した。(2005.1.13)
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