フランスワインの定着 その5:大衆化=販路の多様化《ワイン片手に経営論》第9回

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■中世の大都市パリとその周辺庶民の土地所有を牽引した飢饉、黒死病

弁護士も、検事も、商人も
良質のブドウ畑を求めてやって来る
司祭や僧侶たちでさえも
ぶどうに目がない
誰もがブドウ農夫になりたいとおもっている
美味なるワインを飲むために、と口を揃えて言う
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五百人いれば五百人、千人いれば千人がいうだろう
オーセール中で、自分のワインが一番だと
だれもが自分のワインを褒めたたえる
作者不詳「良きブドウ農夫の独り言」


 この時代の詩を読むと、どのような人たちがワインを飲んでいたかが窺えます。中世になるまで、ワインの中心的な消費者は国王一家や貴族たちでありましたが、時代がくだるにつれて中産階級から庶民へとワインの消費が広がっていきました。冒頭の詩から、弁護士、検事、商人といった中世の中産階級の人たちが、ワインの消費者であるというだけでなく、「ブドウ農夫になりたい」と考える中産階級の人たちはブドウ園を所有しワインを生産していたということが想像されます。そして、弁護士、検事というのはいわゆるホワイト・カラーですが、このような職業の人々が多く生まれるのは、これも都市国家が成立し始めている一つの証拠です。

 それにしても、書籍が重たい。にぎやかなモンマルトルの丘にいくつかカフェが並んでいます。わたしは、そのうちの一つのカフェに入って、身体を休めつつ、すっかり渇いたのどを潤すことにしました。フランスで「Un cafe (one coffee)」と頼むとエスプレッソがデミタス(half cupの意)に注がれて出てきます。そのコーヒーを飲みながら、カフェのテーブルから芸術家たちの様子をしばらく眺めた後、再出発です。

 多くの画伯らが集まる広場から、やや歩くとサクレ・クール寺院という有名観光名所に到着です。それはそれは威風堂々とした寺院です。高さ83メートルの寺院が丘の上にあるものですから、体感の高さはそれ以上。圧巻です。そして、中に入ってみると、どうやら寺院の上に登れるらしい。お金を払い、さらに中に入ると小さな螺旋状の階段。手には重量書籍。一瞬思案し、入り口の横にあるわずかなスペースに、「この本をここに置いていってもいいですか?」とカウンターのおばちゃん(きっとパリジェンヌ)に、ある種の緊急事態になると気のせいか流暢になるフランス語で尋ねると、「Non!」とつれない返事。やや沈黙の後、力なく「D’accord!」(OKの意)と返事し、書籍をもったまま、いざ螺旋階段へ。

 人生に試練というのは時に突如として現れますね。階段を上りながら、かつて中学高校時代にバレーボール部で、学校で一番長い階段を1階から屋上まで上り下りしたトレーニングを思い出し、パリの真ん中で中高時代のトレーニングを想像する滑稽さを感じながら、後ろから上ってくる他の観光客に追いつかれまいと、必死に登ったのでした。

 そして、ようやく頂上へ。もはや着ているシャツは汗でびっしょりでしたが、頂上のそよ風で気分爽快。そこから見えるパリの景色は絶景です。そして、手に持っていた書籍のことはすっかり忘れ、遠くエッフェル塔を臨みながら、ただただひたすら続く、建物、建物、建物。このパリという世界有数の大都市の広がりにしばらく立ちつくしていました。
Creative Commmons. Some Rights Reserved. Photo by chargrillkiller
 この大都市パリの14世紀ごろの人口は8万人から20万人と推定されています。当時にしては強大な都市でした。パリは国王が住む街であるとともに、ワイン、塩、羊毛の河川交易の商業の中心地として発達しました。

 しかし、このパリの発達の背景には良いことばかりあったわけではありません。特に、14世紀は、フランスにとって苦難の時代です。10世紀ごろに500万人いたフランスの人口は、13世紀になると1500万人から1900万人に増加していましたが、1315年から1317年には大飢饉が発生、穀物生産量が3分の2にまで減少しました。さらに、1347年から1348年にかけては黒死病(ペスト)が大流行し、人口は30%から50%近く激減。その後も黒死病は止まらず、1596年までにパリでは22回流行したと記録にあります。

 このような苦難の時代、人口がかなり減少したのですが、生き残った農民にとっては、土地を取得し自立しやすい環境でありました。領主にとっては、人口減により税収が減ってしまっていますので、農民がより税率の有利な土地に移ってしまわないように、農民を引き止めておくことが必要になりました。結果、農民は自らの減税要求を領主にのませつつ、自ら土地を所有できるようになっていきました。さらには、土地の所有者は農民だけではなく、都市生活をしているブルジョワ(中産階級)の人たちにも広がっていったのです。

 この中世の時代は、領主が土地を封じて社会を統治する封建社会でありましたが、飢饉や黒死病の流行によって、農民や中産階級の都市生活者がパリの郊外に数多くのブドウ畑を所有するようになっていったのです。そして、これが、都市への食糧への供給基地ともなって、ますます都市を発展させていったと想像されます。

 実際に、13世紀から14世紀ごろの主要都市の周辺には、菜園、果樹園、酪農場、ブドウ園などが広がり、都市に向けて生産物が出荷されていました。とくにフランドル地方の周辺には多くの都市が存在し、都市の廃棄物を肥料として利用することができたため、高い収穫量を得ることが出来たということです。

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