戦前にも練られていた「蒲蒲線」構想の全貌

モノレールで蒲田と羽田を結ぼうとしていた

国立公文書館の所蔵文書によると、羽田航空電鉄の発起人は昭和初期の1931年3月20日、鉄道大臣に対し蒲田~穴守間5.0kmの地方鉄道免許を申請している。蒲田駅の東口を起点とし、ここから呑川に沿って東進。海老取川を渡って羽田飛行場(現・羽田空港)のある空港島に入り、終点の穴守駅(現在の羽田空港B滑走路南端付近)に至るルートが考えられていた。

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羽田航空電鉄のルート(赤)。現在の東急・JR蒲田駅東口から呑川に沿って東に進み、羽田空港の敷地内に入る計画だった。(地図ソフト「カシミール3D 地理院地図+スーパー地形セット」で作成)

線路は懸垂式モノレール(車両が軌道桁にぶら下がって走行する方式)の複線を採用し、途中には国道・運河・森崎・飛行場の4駅を設置。このうち国道駅は、現在のJR鶴見線国道駅とは無関係で、京浜蒲田(現・京急蒲田)駅の東側に設けられる予定だった。蒲田駅と京急蒲田駅を結びつつ羽田空港に向かう「蒲蒲モノレール」が、戦前の段階で考えられていたのである。

この頃、モノレールは新しい乗り物として注目されていた。1901年、ドイツ・ルール地方のヴッパータールという工業都市で、「オイゲン・ランゲン式」と呼ばれる懸垂式モノレールの営業路線が開業。このモノレールの話が日本に伝わると、民間の起業家らが全国各地でモノレールの計画をぶち上げた。

国立公文書館の所蔵文書を確認した限りでは、1910~1930年代に少なくとも11件、モノレールの申請があったようだ。羽田航空電鉄も、そうした時流の中で計画されたモノレールで、申請書類にはヴッパータールのものとおぼしきランゲン式モノレールの写真も添付されていた。

実績なしで幻に……

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羽田航空電鉄の申請書類に添付されていたオイゲン・ランゲン式モノレールの写真(国立公文書館所蔵)

しかし、申請のあったモノレール計画の多くは、発起人の資金力が乏しく実現性が不透明であったこと、さらに、大半の申請路線が既設の鉄道路線と並行していることが問題視され、ほぼ全て却下処分となっている。当時は国内にモノレールの実績がなく、技術面で不安視されたことも背景にあったのだろう。

羽田航空電鉄は、発起人の資金力に関しては問題ないとされたが、結局は並行する京浜電気鉄道穴守線(現・京急空港線)に影響を与えることが懸念され、申請から7カ月後の10月20日、却下処分となってしまった。

こうして羽田航空電鉄は幻に終わったが、東京オリンピックの開催を控えた戦後の1964年9月17日、羽田空港へのアクセス交通機関として跨座式モノレール(車両が軌道桁にまたがって走行する方式)が開業した。浜松町~羽田空港間を結ぶ、現在の東京モノレールだ。

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