言論の自由の限界は、法律では決められない−−イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト

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ウィリアムソン司教の思想は忌むべきものかもしれないが、それを理由に刑事犯として告発するのはよい考えとはいえない。同司教は批判され、嘲笑されるべきであるが、投獄されるべきではない。同様にワイルダース氏のおぞましい短編映画も英国で上映を禁止するよりも、公開させるべきだろう。憎悪を広げ、人々を攻撃することを禁止した法律についてさまざまな考えがあるが、言論の自由は法律では対応しにくい。

言論の自由は絶対的なものではない。『コーラン』の否定を訴えるワイルダース氏でさえ、自分だけでなく、批判者にも言論の制限があることは知っている。しかし、正確に何が制限か規定するのは容易ではない。なぜなら、その制限は誰が、誰に向かって、どこで発言するかによって変わってくるからである。

ウィリアムソン司教の意見は突然、問題になった。破門された司教が、法王によって復権されそうになったからである。そうなれば、彼の意見に制度的な正当性が与えられることになる。ワイルダース氏の場合、彼は政治家で、脆弱な少数派の人々に対して危険な偏見を植え付けようとするなど事情は異なる。

市民社会では、人々が口に出してはならない事柄が数多くある。米国の黒人の若者内でごく普通に話されている言葉を、白人が黒人に向かって使うと、まったく意味合いが違ってくる。少数派の人々のやり方や信念を嘲笑することは、多数派の人々の習慣や考え方に挑戦するのとは同じではない。

人々が誰に対しても言いたいことを自由に言うなら、人種的、宗教的多様性を持つ市民社会は崩壊してしまうだろう。問題は、どこに線を引くかである。法的に言えば、言葉によって暴力を引き起こすことを意図しているかどうかがポイントになるだろう。ただ非常に多くの変数があるため、社会的に絶対的、普遍的な原則を確立するのは不可能である。適切な限界はつねに試され、挑戦を受け、再確認されなければならない。

ウィリアムソン司教やワイルダース氏のような人物は、私たちが言論の自由の限界を判断する際に有用な存在である。彼らに自由に話をさせることで、法廷ではなく、反対意見を述べることによって判断することができる。発言を禁止することは、彼らを言論の自由のために戦う殉教者にしてしまうことになる。そうなれば彼らの意見を攻撃するのが難しくなるだけであるだけでなく、言論の自由に悪いイメージを与えることにもなるだろう。

Ian Buruma
1951年オランダ生まれ。70~75年にライデン大学で中国文学を、75~77年に日本大学芸術学部で日本映画を学ぶ。2003年より米バード大学教授。著書は『反西洋思想』(新潮新書)、『近代日本の誕生』(クロノス選書)など多数。

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