学校ではなぜ「不合理」がまかり通るのか 「柔道事故」と「沖縄基地問題」の意外な共通点
内田:柔道と沖縄の基地問題がつながるとは! そうか、似ていますね。「仕方ない」とか「やむをえない」といった言葉で表現されるものが、見えない差別にかかわっているのかな。柔道や組体操は、よく「スポーツに事故はつきもの、仕方ない」という言葉で片付けられてしまいます。
木村:沖縄の問題だと、「基地があるのは仕方がない」「安全保障にはどうしてもつきものの負担」とか、学校で使われる言葉とよく似ていますよね。質の違う問題ではあるんだけれども、根っこの意識のあり方としては共通していると思うんです。
内田:僕が『教育という病』という本のなかで扱ってきたものも、まさにそういう「仕方がない」と思われてしまうような「見えない苦悩」です。たとえば「いじめ」みたいな、明らかに誰もが「ダメだ」とわかっているようなものは扱わなかった。みんなが「いい」とか、あるいは「必要悪だ」と思っているようなところで隠れ てしまう部分がテーマでした。
目的と現実との不合理性=「差別」ということ
木村:そういった差別と戦うとき、法学的には「モデルの設定と現実のギャップ」を追求するんです。「それをやる目的は何なんですか」というところを確かめて、実際に行われていることとの不合理性をあぶりだす。そこが差別だよね、ということになるわけです。
「合理的」にも2つの段階があります。ひとつめは、「目的を達成するのに役に立っているかどうか」ということ。もうひとつが、「目的を達成するのに役立っているとしても、それよりもゆるやかな別の方法でも目的を達成できるかどうか」ということ。この2つのポイントで、合理的かどうかを考慮する。
だから例えば、さっきの武道の話で言えば、もし「礼儀を身につけさせること」が目的であるなら、あえてより危険な柔道という方法を取る必要はないでしょう、囲碁や将棋でもいいでしょう、と言えるわけです。
この手法は、学校にある諸々の「なんでこんなことやるの?」という問題を考えるうえで、ひとつの考え方のモデルになるかなと思うんです。
内田:すごく面白い……。こういう話って、法学の世界では常識なんですか?
木村:行政法の世界では古典的な話で、「比例原則」って言います。「目的に比例する手段しか、とってはいけませんよ」ということ。憲法の世界でも、権利を制約するときには必ず「比例原則に適合していること」が要求されます。
ということで、これからまさにこの「比例原則」の目で、内田さんが指摘しているいろんな問題を見ていきたいなと思います。
(撮影:梅谷秀司)
※次回は1月7日(木)に掲載予定です
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