1526(大永6)年、、「今川仮名目録」作成の翌々月、氏親は死没する。嫡男の氏輝が家督を継ぐことになった。
意外と奮闘していた10代当主の今川氏輝
だが、氏輝は13歳とまだ若い。母の寿桂尼が政務を取り仕切ることになった。寿桂尼は、氏輝が15歳になるまでの2年間にわたって、自分の印を押した朱印状を発布している。寿桂尼はその働きぶりから「女戦国大名」ともいわれた。
そんな強烈な母親の印象が強すぎるからだろう。氏輝は今川家の当主として影がすこぶる薄い。公家や文化人との交流を好んだことからも、軟弱なリーダーとして扱われやすいようだ。
そのうえ、23歳の若さで病死したため、「リーダーシップを発揮する間もなくこの世を去った」というのが一般的な氏輝の評価となっている。一見、マネジメント面で学ぶことは特になさそうである。
しかし、氏輝も当主として新たな取り組みを行っていた。そのうちの一つが「馬廻」という直轄軍の編成である。
氏輝についての史料は少なく、馬廻の実態は明らかになっていないが、『今川氏滅亡』を著した大石泰史は、氏輝がまだ不安定な領国の様子をふまえて対策を練ったのではないかとして、次のように分析している。
「当主として君臨しようとする氏輝が、城主クラスの子弟らを馬廻に任ずることで家中の結束を固めた。こうしたことは考えられないだろうか」
若き氏輝ならば、「女戦国大名」と畏怖された寿桂尼よりも、家臣たちとの距離感も近かったことだろう。若社長が新たな人材を発掘するがごとく、氏輝も意欲ある人材を馬廻として活躍させていたとしても不思議ではない。
また、氏輝は経済政策にも着手しており、1カ月に3日間、「三度市」という市を開催。商人たちが集まりやすいようにするなど、経済の活性化にも腐心していた。
さらに、1534(天文3)年と1535(天文4)年にかけては、甲斐国の武田軍と合戦を行い、その翌年には、甲斐国へ侵攻。軍事面でも活躍している。
猛烈な母親の勢いに押されながらも、短い生涯のなかで、リーダーとしての役割を氏輝なりに果たそうとしていたのではないだろうか。


















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