信長のようなぽっと出の大名に苦杯を喫したのは、さぞ屈辱だったに違いない。なにしろ、もともと今川家は、室町時代から戦国時代にかけて、実に230年にもわたって駿河を支配した名家中の名家である。室町幕府を開いた足利尊氏は、今川家について、こんなふうに書き残しているくらいだ。
「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
将軍家が絶えたならば吉良が、吉良が絶えたら今川家がその後を継ぐ――。
吉良については後述するが、将軍家に次いで権勢を誇るほど、今川家は強大だった。今川家はまさに「ベンチャーに倒産に追い込まれた名門企業」だ。
だが、一方で、その統治法は、必ずしも悪手ばかりではない。むしろ、いち早くさまざまな改革に取り組んでさえいた。
6代目の今川義忠も奇襲を受けて戦死
駿河、遠江と現在の静岡県一帯を支配下に置いて、戦国時代初期に最大勢力となった今川家。そのルーツは足利家にある。
足利氏の祖とされているのが、平安時代末期の武将、源義康だ。その孫にあたる足利義氏には、足利泰氏という息子がおり、足利家を継ぐことになるのだが、実は、もう1人、息子がいた。庶長子、つまり、正妻ではない側室が生んだ、吉良長氏である。
これが先に、足利尊氏が「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ」と言った「吉良」のことだ。
吉良長氏にも満氏と国氏という2人の息子がいた。この国氏が「今川」を称し、今川国氏として、今川家の祖となる。
国氏の息子、今川基氏が後を継ぐと、今川家は遠江国を拠点とし発展していく。
そして、基氏の5男にあたる今川範国が家督を継いで、駿河今川家の初代当主となる。範国は、室町幕府の引付頭人(訴訟の担当者)などを務め、今川家は足利将軍家と密接な関係を築く。


















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