駿河今川家の6代目にあたる今川義忠は、遠江国の制圧を目指して戦を繰り返すが、敵兵から奇襲を受けて40歳の若さで戦死してしまう。今川家はどうも当主が、戦で奇襲を受けて命を落としやすい傾向にあるようだ。
このとき、後継者となる嫡男の龍王丸は、わずか5歳だった。当然、すぐに政務を行うことなどできない。血筋にこだわるか、実力を重視するか。後継ぎを巡って、今川家は混乱に陥る。
9代目の今川氏親が作成した「お家騒動マニュアル」
今川家の勢力は二分された。正統な後継者である龍王丸につく側と、義忠の従兄弟にあたる小鹿新五郎範満につく側の2つである。
「文明の内訌」(「内訌」は「うちわもめ」のこと)と呼ばれるこのお家騒動によって、龍王丸は暗殺される恐れすらあった。だが、叔父にあたる北条早雲が仲介に入ることで、ことなきを得ている。
紆余曲折があったものの、早雲が室町幕府第8代将軍の足利義政に働きかけたことで、龍王丸が家督を無事に継承。今川氏親として当主となり、早雲の協力を得ながら、父の悲願でもある遠江国の制圧を果たした。今川家を守護大名から戦国大名へと転身させたのも、氏親である。
やがて病に伏せた氏親が、真っ先に考えたことは、ただ一つだった。それは「いかにお家騒動が起きないようにするか」。氏親は晩婚だったから、息子の氏輝もまだ若かった。自分に降りかかった悲劇を息子には経験させたくない。氏親は「今川仮名目録」を作成して取り決めを行った。目録の趣旨について、次のように書かれている。
「現代の人々は、悪賢くなって、思いもよらない紛争が起こり、その訴訟が今川氏の法廷に持ち込まれるので、あらかじめそれに対応して、公平な判決を下すことができる裁判規範として、この法典を制定しておくのである。該当する訴訟が持ち込まれたときには、この法典の条項に基づいて判決を下すように」
自身がつらい目にあったことを忘れず、氏親が一歩進んだ取り組みを行っていたことは、リーダーとして評価すべきところだろう。


















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