「忘れられていた日本人」フィリピン残留二世/いまだ清算されていない戦後
反日感情が和らいできた70年代後半から80年代にかけて、二世らは各地で日系人会をつくり、日本国籍を求めた。しかし敵意のなかで生き延びるために多くの妻子は出自を隠し、関係書類を破棄したり、紛失したりしていたため、出生や親の結婚を証明する証拠もなく、多くが無国籍の状態に置かれた。
日本外務省によると、25年3月時点で確認された二世は、死亡や生死不明も含めて3815人。うち父親の戸籍に記載されていない人や、父親の戸籍未判明などの理由で日本国籍がない人が2166人いる。生存が確認されているのは134人。このうち50人ほどは日本国籍の取得をいまも希望している。その平均年齢は84歳だ。
47歳で新聞社を退職し、博論のテーマに
大野氏は85年、毎日新聞大阪社会部の記者として「戦後40年」の企画取材をしていた時に、芥川賞作家中上健次が同紙に寄稿した「ダバオの日系人」という見出しの記事を読み、関心を持ったという。
その時は時間的な余裕がなく掘り下げることはできなかったが、上司に掛け合って翌86年から1年余り国立フィリピン大学に留学し、各地に散らばる二世を訪ね歩いた。
帰国後、社会面に8回の連載記事を掲載し、特集面も執筆して問題を世に問うた。1991年にはノンフィクション『ハポンーフィリピン日系人の長い戦後』を上梓した。
00年に47歳で新聞社を退社し、オーストラリア国立大学に再び留学した。フィリピン大学時代の修士論文もオーストラリアでの博士論文も、テーマはフィリピン日系人だった。
その後、九州大学や東京の清泉女子大で教鞭をとり、退官後の24~25年に7回訪比、延べ4カ月滞在して、旧知の二世らを再訪した。彼ら彼女らの年齢を考えると、ちゃんとした聴き取りのできる最後の機会だと考えた。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら